近代防水前夜の巨大プロジェクト
近代防水前夜の巨大プロジェクト
明治32年新宿淀橋浄水場完成。
秋田産の天然瀝青で防水された。
1892年、東京市が新宿西口付近の淀橋浄水場建設工事用としてベイヤー・ピーコック社に発注した2輌のCタンク。浄水場工事が終わると機関車は鉄道庁に譲渡され、その後臨時台湾鉄道隊に転用された。
近代防水の始まりは1905年。その13年前、明治の近代化を支える巨大インフラ 淀橋浄水場に、秋田県の土瀝青(天然アスファルト)が大量に、運ばれ、防水施工された。掘り出したのは 穴原商会。ここから木下金蔵、岡田平蔵が別れた。多くの資材とともに、アスファルトを運んだのがこの機関車だ。
淀橋浄水場。アスファルトの歴史に関する古典的資料、村岡坦著「アスファルト」に掲載されている東京市水道沈殿池のアスファルト塗布の写真である。
この有名な写真は、各所で引用されているが、写真に写っている工事に関する裏付けがなかった。村岡は明治43年8月発行の「アスファルト」のp.121に写真第十一としてこの写真を掲載し、「東京市水道沈殿池アスファルト塗布実況」と写真説明を添えているだけである。しかし、その前ページには「池槽の漏水防御」として防水仕様を示している。
東京都水道局が昭和41年に発行した「淀橋浄水場史(非売品)」。この資料から、この有名な写真の施工時期は明治41年末と推定できる。
明治25年から始まった工事は32年に完成、給水を始めたが、直ぐに使用水量が増加し2期工事が計画された。
実は第1期工事では防水工事は施工されなかった。第2期工事の実施設計に対して「既設の沈澄池、ろ池はいずれも粘土張りの防水工だったが、増設分には結成石表面に厚さ五分のアスファルトを塗るよう設計変更し、明治39年10月の市会の議決を得た」(同書53ページ)とある。
あの見慣れた写真は、まさにこの第2期工事のものであろう。諸般の事情で工期は遅れ、秋田から大量に運ばれた天然アスファルトによるによる防水工(土木野分野では建築と違って「防水工事」とは呼ばず、「防水工」、といいます)が施工されたのは41年末から42年初めである。
こうして2期工事は明治42年3月末竣工、直ぐに使用開始された。「アスファルト塗り工事のおかげで漏水等の試験結果は良好だった」(同54ページ)という
今でもアスファルト(燃える土) の層が露出ているのを見ることができるのは、秋田県豊川村(現潟 上市)真形尻、鳥巻沢地区などである。秋田の黒沢利八が明治10年。内国博覧会に土瀝青を出展して以来、天然アスファルトの利用が広まり、やがて秋田には土瀝青ブームが訪れ、豊川村の土瀝青生産量は ピーク時の明治41年には111万6162貫に達し、浄水場の防水や道路舗 装などに採用され、近代化日本のインフラ整備に貢献した。(秋田石油アスファルト時報)
採掘風景の写真を拡大すると穴原商会のハッピを来た人物の姿が写っている。穴原商会 は明治27年に設立され,我が国 建材業界の創始者であり、創業者である穴原栄治郎と共に活躍したのが我が国防水工事店の草分け、木下金蔵(木下謹三商店創始者)と岡田平蔵(岡田建材創始者)だった。その当時、土瀝青(天然アスファルト)の原鉱を溶解して純度の 高い塊を「万代石」として出荷、旺盛な需要に生産が追い付かず昼 夜なく製造され,村人は耕作を放 棄して採掘場に向かい、家々の収入は急増、まるでゴールドラッシ ュの様相を呈していたという。
近代防水の歴史に関しては、東京工大・小池迪夫名誉教授の調査によって、近代防水としてのアスファルト積層工法が初めて施工されたのは明治38年(1905)となっているが、天然アスファルトを 溶融した塗布防水は紀元前3000 年から明治にかけて広く使用されていた。しかし明治の土瀝青 ブームも時代が大正に移ったころ を境に石油アスファルトに席を譲り、次第に忘れ去られてゆくのである。
2016/04/25(月) 09:11:32|ARCHIVES|