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防水をライフワークとするテツキチが見た東京駅

防水をライフワークとするテツキチが見た東京駅

「老鉄チャンの東京駅見学記」
サーツPSATA(建築技術支援協会)は、高度な技術や豊富な経験をもつベテラン建築技術者の集まりである。培ってきた技術に加え社会の変化に対応する新たな技術の習得・研究に努め、次世代への知識・技術の伝達、市民への建築・住宅に関する技術の情報発信活動などを通じて公正中立な立場から社会に貢献することをめざすNPOである。

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サーツは会報を年間に4回発行しており、最新号の53号が届いた。表紙を見ると、JRのヘルメットをかぶった2人の男が映っている。

和田会長鶴田

右はPSATA(建築技術支援協会サーツ)代表理事で建築学会会長の和田章さん。左は鶴田裕さん。ニコニコの和田さんと、見学に興奮(緊張)の鶴田さんの表情が対照的ですね。

「老鉄チャンの東京駅見学記」

鶴田 裕

5月に入ってからJRの駅構内に、東京駅がこの秋に竣工するという縦長の大きなポスターが掲出されている。それには東京中央郵便局の方向から撮影した昭和11年とこの4月頃、及び平成8年の旧国鉄本社ビル側からの3枚の写真が添えられている。筆者はサーツ会報41号にて報告したように、かつてサッポロビール園や旧司法省の改装、丸の内の三菱東9号館の解体時の調査に関わり、以来煉瓦造の建物に愛着を感じるようになり、昭和52年頃から始まった東京駅の煉瓦建築を残すか壊すかの論争は大変気がかりであった。当時の国鉄、国会、運輸省等多くの関係者の検討や調整を経て、平成14年2月の石原都知事とJR東日本大塚社長会談で、創建時の姿に復元すると決められたと思っている。

平成24年4月4日の午後に、外部足場の殆どが撤去された東京駅のサーツ見学会が行われた。わずか10人余りのきつい定員に加えて戴けたのは、どうやら私の根っからの鉄道マニアゆえのことだったらしい。ということで、見学会終了後に報告文作成の依頼が届き、鉄道ファンの目から見た感想文を書かせてもらうことにした。

このような現場見学会の多くはゼネコン側の案内が多いが、今回は施主であるJR東日本工事事務所の案内である。見学に先立つ説明会場に入り、チラッと見るとJR東の安全帽、安全帯などが目に入り、早やルンルン気分である。昭和29年、、房総東線(現外房線)で使用開始する新製気動車の試運転同乗時に、国鉄の制服着用以来のことだったからである。

まずビデオを見た後、復原工事のパンフをもとに工事のポイントが解説された。その多くの時間は、地下の躯体の構築、免震装置の設置、それに伴う杭打ち、地上構造物の仮受けなどにあてられ、工事の進捗を追っての手順が説明された。

早速現場に入り、最初の見学場所は旧乗車口、現在の丸の内南口のドームに接する部分であった。進駐軍が軍用に使用していた場所であったとの説明を受け、60年余り前にタイムスリップ。思わず「RTO」があったところだと独り言を言ってしまったら、隣にいた吉田宏氏が「廊下の突き当たりのお便所」と言い、顔を見合わせて苦笑。RAILWAY TRANSPORTASION OFFICEの略で、米軍関係者の専用列車や電車利用者専用のラウンジで赤や青の細いネオンチューブを折り曲げてRTOの表示をしていた。暗い駅構内でただ一か所キラキラ輝いていたところで、勿論日本人は立ち入り禁止であった。この列車は戦前製の1,2等寝台車や食堂車を連ねた車体に白帯を巻き、1両ごとに異なる人名を書いた超豪華列車で、東京からは佐世保行き、上野からは札幌行き(青函連絡船は航送)などがあり、吉田氏の話では桜木町駅にもRTOがあったとのことであった。多分全国の主要駅にあったものと思われる。恨みつらみで、Rは廊下、Tは突き当たり、Oはお便所が、当時の若者連中の隠語であった。 

この場所は仕上げ工事の真っ最中で、大正3年竣工時の煉瓦に、仕上材用の下地材固定のために埋め込まれた木れんがが黒こげになったまま残されていた。昭和20年5月25日の深夜に焼夷弾の直撃を受け、炎上した記録を後世に伝えるとの気持ちが伝わってきた。続いて南口の3~4階部分にある八角形のドームへ向かう。創建時の姿に復原されており、ドームの交点には干支のうち八匹の動物や大きな鷲の彫刻などがすでに取り付けられていた。鉄道ファンに有り勝ちな行動であるが、列車や機関車が消え去ると聞くと、多くの人が集まってくる。平成19年5月の復原工事着工の1年くらい前から、ドームの2階にあるカウンターバーが、帰宅時の東京始発総武線快速の待合室代わりとなり、この日は正にその場所からこのドームを見上げることになった。このRTOは丁度今から60年前の昭和27年4月28日の講和条約発効に先立つ3月31日に廃止になった。

引き続き、ホテル部分の客室や、行幸通りを経て皇居が見えるVIPルームなどを見学。更に創建時には使用されていなかった中央部分の屋根裏をホテルのゲストラウンジに活用することとなり、一部の煉瓦壁面をそのまま残して内装仕上げに活用する工事、あるいは中央線ホーム側の勾配屋根からは自然光をたっぷり取り入れるなど、竣工が待たれる部分であった。この部分は1&2番線の中央線ホームが近接していて空間が僅少で、大変苦労したとの説明があった。そういえば、平成9年の長野行き新幹線用のホームのスペースを確保するために、中央線を3階と4階に持ち上げ、今までのところにホームを1本ずつ移動するという大工事を平成7年から9年にかけて実施した。この時点では東京駅の復原は既述のように決定しておらず、今回苦労したとのこと。JR東海と話がうまく進まなかったことは、鉄キチ仲間ではよく知られた話である。#10の東海道在来線の隣が#20~23の東北や長野方面の新幹線で、その隣からが14~19の東海道山陽新幹線で、数字が逆戻りしているのはその結果である。

当日案内して下さったJRの方に、創建時に施工した現8番線から丸の内南口を経て東京中央郵便局まで繋がる荷物と郵便を運搬する赤煉瓦地鉄道の消息を聞いたところ、東京駅構内部分は健在とのこと。鉄道マニア間では最古の地下鉄の遺跡が今後とも保存されることを願っている。

この原稿を書きながら、今回の復原部分に使用している煉瓦のメーカー名を見学時に聞き忘れていたことを思い出した。数年前の丸の内の煉瓦造ビルの再現工事では中国製の煉瓦が使用され、もう国内での多量の調達は困難がその理由であった。急ぎ問い合わせたところ、常滑市にある㈱アカイレンガ製との回答を頂いた。同社のホームページによれば大正14年創業の会社で、3代目社長の赤井祐仁氏の言によれば、10年くらい前に東京駅復原工事への適用の打診を受け、風合いなど“色ムラ”をいかに上手に出すかという苦労話が語られている。日本の玄関口東京駅にふさわしい、国産ならではの誇りを感じられる嬉しい言葉で結ばれていた。

竣工前のお忙しい中、見学させていただきましたこと、JR 工事関係者の方々に深く感謝いたします。

写真に添えて(RN注:掲載誌、右頁、東京駅写真の解説です。)

平成14年9月に丸ビルの建て替えが竣工し、5階に写真を撮るのにうってつけのテラスができた。①の写真は平成18年3月3日撮影の東京駅着工の1年前である。②は着工後2年3か月後の平成21年8月27日の写真で、八重洲側に多数の高層ビルが建っている。また中央郵便局も着工している。③は平成24年4月4日の見学日の写真であるが、3枚ともほぼ同時刻の撮影であるにもかかわらず、南口が暗いのは中央郵便局の高層部分の陰である。
 

NPO建築技術支援協会PSATS(サーツ)会報Vol.053より

ある日の丸の内中央口
ある日の丸の内中央改札。これがその日だったのですね。

画像の説明

これまで撮った写真を手に、定点撮影地点ででアングルを確認する鶴田さん。この写真が記事中に掲載されている。

2012/07/10(火) 08:00:10| 歴史的建物を守る|

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