「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

「シーリング業界の父」 苅谷勝(マサル)氏のこと。

「シーリング業界の父」 苅谷勝(マサル)氏のこと。

2015年7月8日逝去。87歳。

yuuyake

苅谷勝(かりやまさる)氏 
1927年11月、岐阜県各務原市生まれ。1950年㈱苅谷商会入社、1952年同社閉鎖に伴い中外商工㈱(本社・大阪市)入社、東京営業所に勤務。1956年退社、独立。昭和化工㈱本社内に事務所を置き、1957年東京都江東区森下にマサル工業㈱設立、代表取締役就任。1987年代表取締役会長。
1965年日本シーリング協会(現・日本シーリング材工業会)第3部会(施工部会)初代会長。
1993年、日本建築学会文化賞受賞

小池迪夫先生、苅谷追悼文
「&シーラント」No.91(2015.12.10)p34-36

小池迪夫先生(東京工業大学名誉教授)、が日本シーリング材工業会機関誌「&シーラント」No.91 に寄せた追悼文が極めて重要だ。曰く、

建築のプレハブ化のキー材料として油性コーキング材の第1号を登場させ、その充填工事への志向を苅谷勝さんに助言した人がいた。」それが苅谷勝さんの従兄の苅谷廣見(故人)さんである。

先生が大学3年の時、1954年、渋谷・東横会館の増築工事に、日本で初めての油性コーキング材(アメリカから輸入されたバルカテックス)が使用された。建研の平賀部長が、当時昭和化工(現・昭和シェル石油)に在籍していた苅谷廣見さんにその国産化を勧めた。その後昭和石油に委託生産された油性コーキング材は国産第1号「エバーシール」として1955年販売が開始された。小池先生は苅谷廣見さんとの縁で、昭和化工に入社する。

詳細は「&SEALANT」で。

日本シーリング材工業会が機関誌「&シーラント」No.90とNo.91 で苅谷勝氏の追悼記事を掲載している。同工業会飯島委員長はその中で苅谷氏と油性コーキング材との出会いを次のように書き起こしている。

苅谷勝氏と油性コーキング材の出会いは、「(従兄にあたる)苅谷廣見氏が1951年頃に自宅の庭でドラム缶を焚いて油性コーキング材を試作していた」という西一氏(元㈱西ウォータープルーフィングの話と、当時廣見氏が設立した苅谷商会に勝氏が在籍していたことから、既にその頃、その存在を意識していたとしても不思議はない。文献にある1955年国産化の4年前、さらにABC商会が「バルカテックス」を輸入開始(1952年)したとされるより以前でもある。その後、勝氏は中外商工でバルカテックスなども含め各種防水材を取り扱いながら防水の知識を取得、廣見氏は昭和化工の役員となって油性コーキング材国産第一号「エバーシール」の開発に成功、販路確立に向けて施工者を募り、勝氏に声をかけ呼び寄せる。これが現在に至るシーリング業界歴史の起点となった。(90号、p13-19)

同じ号で、苅谷純氏の挨拶、宇山廣道・操上弘昌両氏の弔辞が掲載されている。

また、2006年6月に鹿島建設を定年退職し、技術顧問としてマサルに入社し、勝氏と個人的にも親交の深かった内藤龍夫氏が、現在の我が国ではシーリング施工の規範となっている「三井霞が関ビル」のシーリング工事における業績や海外工事、職人育成への思いなどについて、詳細に語っている。

………計画時点の検討図面を見ると、目地充填剤として油性コーキングの名称が記載されていたが、二階所長(後に副社長になった二階盛氏)の強い意向により、アメリカで開発されている弾性シーリング材の採用が検討された。 
………当時、マサルでも弾性シーリング材の利用を検討していることに着目し、弾性シーリング材の施工業者としてマサルと他1社を指名した。結果としてガラス目地に1成分形のシリコーン系シーリング材、版間目地には2成分形のポリサルファイド系シーリング材が採用されることになった。
………当時を振り返って、苅谷さんは「鹿島の担当社員はバッカーがきちんと詰められるよう業者任せにせず、自ら目地の深さを一つ一つ測って、日報に記録するほど非常に高度な管理手法を取られていたよ」と、しばしば話されていた。
………など(90号p16-19)

※防水業界の専門誌月刊「防水ジャーナル」では1984年1月号の写真ルポ「防水に生きる」に「おもしろ まじめ シールにんげん」として3ページにわたって紹介されている。

2016/01/13(水) 01:19:02|ひと|

powered by Quick Homepage Maker 4.8
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional