「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

近江神宮「志賀」

近江神宮「志賀」

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」1

近江神宮「志賀」第240号

「志賀」

天智天皇を祀る近江神宮にとって、「燃える土(瀝青・アスファルト)と燃える水(石油)を天智天皇に献上した」という日本書紀の記録は、極めて重要である。我が国文献中に見る、アスファルト・石油の初見であるこの記述にもとづき、近江神宮は毎年7月7日、燃水祭を斉行している。
毎月発行されていた近江神宮の広報誌である「志賀」の7月号には、例年燃水祭に関する記事が掲載される。

ルーフネット編集部では、近江神宮からいただいたこの資料のうち、数点を選び順次紹介します。昭和63年7月1日号の「志賀」です。表紙の絵には前田青邨が画いた「燃水献上図」が掲載されています。

本文中「所見」は「初見」、「清水」は「清砂」のことだと思われます。もちろん見出しの書記は御愛嬌。
(Y.M.)

越国、燃土と燃水とを献る

―――書紀天智天皇七年

 天智六年都を近江大津に遷された天皇は、明くる七年(六六八)正月三日、大津宮に御即位される。
 大化元年六月、蘇我入鹿を大極殿に誅し給い蝦夷を誅に伏さしめ国本の正道を立てしめられてより十七年の間、皇太子として改新の大事業を着々と進められ、斎明七年、百済の役に際し、斎明天皇朝倉宮陣中に崩御せられた後は即位の式を挙げられず素服(あさものみそ)にて称制を行なわれた。更に六年を経た七年目の正月、即位の礼典は新都大津京において華やかに行なわれたのであった。
 この年の主な歴史事項を見ると◎二月、倭姫女王を皇后に立て給い皇弟大海人皇子を皇太弟となされる。◎四月、百済・調を進む。◎七月、高麗越路より調を進む。栗前王を筑紫率に配す。武を近江に講じ牧を置き馬を放つ。越国、燃土と燃水とを献ず。◎九月、新羅、調を進む。◎十一月、新羅王に絲綿韋等を賜ふ。◎是歳、近江崇福寺を創立す。等々が記録されている。
 この七月の条に録される『燃土、燃水(もゆる土、もゆる水)は、石炭、石油の事である。(注1)我が国文献中に見る石油の初見は、実に千三〇〇年前、大津宮天智大前に献上されたものであった。
 「越国」は、現在の新潟県北浦郡黒川村であったといわれる。黒川村の由来は、昔、黒い川が流れる程、臭水(くそうず)(原油)が湧き出した事によると伝えられる。この臭水の川野に落雷等にいよって火災が発生村人が被害を被むっている事を知られた中大兄皇子は、大化四年、使を出し、臭水の神を祭り、清水を撒く事を教えられ、工事が行なわれた事により火が鎮まったと伝えられる。今日の基幹エネルギーとして文明社会の血液となった石油が、古代、天智天皇により暴ぶる勢いを鎮められたという御事蹟を想う時、まことに、この時代の布石が大化改新に象徴として表われている事の深い意義を感じて止まないのである。
 近江神宮では、この由緒に鑑み、毎年七月七日、燃水祭を斎行、文化の火石油、その祖神に感謝のまことをささげるのである。祭典には今日も、越の国、黒川村々長より「燃水献上の儀」が執り行われている。
(「志賀」第240号 昭和63年7月1日)

注1:編集部注。近江神宮広報誌「志賀」の発行責任者である吉田健一氏は、平成2年の記事で、「燃土とは天然アスファルトのことである」と記している。文中の太字は本文のまま。

我が国の文献における瀝青・アスファルトの初見は日本書紀

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」2

近江神宮「志賀」第252号

志賀第252号

毎年7月7日、午前11時燃水祭が近江神宮で斉行される。毎月発行されていた「志賀」の7月号は燃水祭の記事が第1面で紹介されることが多かった。
この年は1面の口絵に小堀鞆音による「燃土燃水献上図」が掲載されている。説明には(日本石油㈱所蔵)と書かれている。


天智天皇 七年七月 燃ゆる水献上さる

燃水祭

七月七日・午前十一時斎行

我が国の歴史に『石油』が初めて登場するのは、今日より千三百年の時代を遡る、天智天皇の都、近江大津宮においてであった。
 天智称制六年(六六七)、大化改新の理想の完成を目ざされ、内外の知識を総動員して建設された近江大津京に奈良飛鳥の地より都が遷された明くる年、中大兄皇子は先帝崩御の御時より六年に渡る称制に終止符を打たれ、正月三日、新都大津京におかれて御即位の禮典を厳修せられたのであった。『燃水献上』の御儀は、その年の七月の事である。

秋七月、越国(こしのくに)より燃土(もゆるつち)と燃水(もゆるみず)とを献る

この日の記録を日本書紀はこう書き止めた。『燃土』とは、今謂う泥炭であり『燃水』とは石油の事である。我が国の文献における石炭、石油の初見であった。
 燃ゆる土、燃ゆる水の献上地とここに記される『越国』は、現在の新潟県北浦郡黒川村であったといわれている。高志(こし)(越)は、古代において北陸地方を総して称されていた地名で、大化改新以降、着々と整備されてゆく交通網のなかで、北陸道は滋賀近江穴太(あのう)を首駅として、琵琶湖を北上し、越前、加賀、越中、越後を経て佐渡に通ず る官道であった。燃土燃水の献上地黒川村は、越後国新潟県の北東部に位置し、磐梯(ばんだい)朝日国立公園飯豊連峰の県境に源を発する胎内川(たいないがわ)が村の中央を流れる景勝の地である。この地は昔、黒い川の流れる程、燃水が湧き出したことから「黒川」の地名がついたと伝えられている。
 錦織平蔵氏著作「燃ゆる水燃ゆる土献上地の研究」には、黒川臭水(くそうず)(原油)発見に関する口碑が多く集められている。45章、古老大平兵七翁談(黒川村黒川)の項には、

「昔近江新附近の川へ黒いものが流れ、百姓達はこれに稲を損められることを非常に苦しんでいました。或時村の江州寺へ一人の雲水が参りこれを見て『前の川の水を何故汲ませないか』と尋ねますと『汲むどころかこれを流すのに一苦労する』旨を答えました。雲水はカラカラと笑って『知らない者は困ったものだ、縄をこの臭水に浸けて焚けばよい橙になる』と教えました。早速試して見ると聞しに勝る重宝なものでありましたから段段つぼを掘って汲取る様になり、源へ源へと掘進み遂に塩谷まで達した」

との談話が紹介されており、古くから燈火に利用され、石油の採掘も始まっていた事がうかがえるのである。

 燃水が、我が国史書に記録されてより一三三二年の歳月を閲(けみ)する今日、我々の二〇世紀の文化を支える基幹エネルギーとして石油は絶対不可欠なものとなっている。その石油の歴史のなかで、天智七年のこの日は、まことに記念すべき一日であった。
 天智天皇を御祭神として近江朝廷旧跡に御鎮座する近江神宮においては、往昔の燃水献上の御儀を畏み奉り全国石油関係者多数の御参列の中に、この日『燃水祭』が斎行される。祭典中には、越国黒川村よりの燃水献上の儀が、一三〇〇年の往時のままに今日も厳修されている。
(吉田健一 「志賀」第252号 平成元年7月1日)

編集部注:近江神宮広報誌「志賀」の発行責任者である吉田健一氏は、平成2年の記事で、「燃土とは天然アスファルトのことである」と記している。

「燃ゆる土とは天然アスファルト」と明記

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」3

近江神宮「志賀」第264号

画像の説明

天智天皇を祀る近江神宮にとって、「燃える土(瀝青・アスファルト)と燃える水(石油)を天智天皇に献上した」という日本書紀の記録は、極めて重要である。我が国文献中に見る、アスファルト・石油の初見であるこの記述にもとづき、近江神宮は毎年7月7日、燃水祭を斉行している。
毎月発行されていた近江神宮の広報誌である「志賀」の7月号には、例年燃水祭に関する記事が掲載される。

ルーフネット編集部では、近江神宮からいただいたこの資料のうち、数点を選び順次紹介します。3回目の今回は平成2年7月1日号の「志賀」です。表紙の写真は燃水祭祭典の様子。通常7月7日ですがこの年は7月5日になっています。翌、平成3年も7月5日になっています。

「志賀」の発行責任者吉田氏は、この号では黒川村村史に触れています。「燃える土」の表現は瀝青の他にも石炭、泥炭とゆれていますが、ここで「燃土=瀝青=天然アスファルト」と近江神宮の「志賀」が明記したことは、防水業界にとって貴重ですね。(日本防水の歴史研究会 Y.M.)

平成2年度 近江神宮 燃水祭

7月5日(木)午前11時斎行

 1320年を遡る天智天皇御即位の御年、「越の国」、今日の新潟県より近江大津京に献上された故事により近江神宮において例年斎行される「燃水祭」は、燃ゆる水、石油の祭典である。本年も「越の国」新潟県北蒲原郡黒川村より近江朝の往時のままに燃水献上の儀が厳粛にとり行なわれる。
 近江大津京に都が遷(うつ)された翌天智七年(六六八)は新都において天皇御即位の大典が執り行なわれた御年であった。その秋七月に、越(こし)の国より『燃ゆる土、燃ゆる水』の献上が近江朝廷にあった事が日本書紀に記されている。
 「燃ゆる土」とは天然アスファルト、「燃ゆる水」とは原油のことである。献上地である越の国は今日の新潟県北蒲原郡黒川村であった事がほぼ確証されている。ここに見られる「燃ゆる水」の記事が我が国文献における石油の初見である。
 中大兄皇子により断行される大化改新(六四五)以降、越の国は北陸道の主要地として朝廷の重んずるところとなってゆく。
 書記大化三年の条に『渟足柵(ぬたりのき)(渟足城)を造りて柵戸(きのへ)(城柵に居住する民戸)を置き給ふ。』と記される渟足郷は、和名抄によれば『越後国沼垂郡沼垂』とあり、今日の黒川村をふくむ地域である。
 黒川油田の沿革は、黒川村誌によると、

「油田地域は、櫛形山脈蔵王山塊丘陵地帯に広がっている。本油田はその発生において日本最古であるといわれている。〈天智天皇六六八年、越の国より燃水・燃土を献上する〉その後一八六〇年頃、その露頭から採取されたが、本格的開発は昭和十五年からである。」

黒川村誌によれば、越国黒川村より近江朝廷に献上された『燃ゆる水』が、本格的に開発され出すのが昭和十五年であると記録されている。
 奇しくも昭和十五年此の年は、一三〇〇年の往昔を偲んで、近江大津京旧跡の地に、天智天皇を御奉祀する近江神宮が、昭和天皇の御勅許を賜わり御創建される年に当る。まことに深い御神縁を感じて止まないのである。
 第二次大戦後、石油は石炭に変わり、世界の第一次エネルギーの主役に立った。ことに日本では徹底したエネルギー転換を行い、今日世界一石油依存率の高い国となっている。
 その様ななかに近江神宮では近江朝廷燃水献上の故事を畏み、燃ゆる水の祭典『燃水祭』を毎年七月に斎行、往時を偲び奉っている。同時にこれに先立つ日、越の国、今日の黒川村においても、その先人が石油と深くかかわって生活して来た貴重な文化遺産を後世に伝える為『黒川村燃水祭』が執り行われ、その祭典で採油された燃ゆる水(原油)を往時のままに近江神宮に奉送、献上されているのである。
 燃水祭当日は、今日の基幹エネルギーとなった文化の火『石油』の担い手である石油関係者の皆様御参集のもと厳修されている。
(吉田 健一 平成2年7月1日「志賀」第264号)

防水の歴史を探る「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。(日本防水の歴史研究会)

前田青邨の燃水献上図が奉納された訳

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」4

近江神宮「志賀」第96号
大協石油会長が前田青邨の「燃水献上図」を近江神宮に奉納

志賀96

これは昭和51年7月1日に発刊された、近江神宮の広報誌「志賀」の第5面の記事。前田青邨の「燃える水献上の図」の原寸複写が大協石油会長から奉納されたことが記されている。

さる(昭和51年)3月11日、大協石油株式会社密田会長から、「燃ゆる水献上の図」の精密な原寸複製が奉納された。この作品は同社が創立30周年記念として、前田青邨画伯に依頼したもの。原画は百号で、同本社に保管されている。

防水の歴史を探る「ルーフネット」は日本の世界の防水に関する記録の初見を求めて日本書紀や聖書などを調べています。「日本防水の歴史研究会」

2011/02/06(日) 09:30:18|近江神宮「志賀」|

「燃ゆる水献上の図」を近江神宮に奉納

大協石油会長

 近江神宮の御祭神天智天皇の七年に「越国より燃ゆる土と燃ゆる水とを献つる」と日本書紀に記録されている。これは「燃ゆる水」(石油)が文献に見える最古のもの。近江神宮では毎年七月七日に「燃水祭」を執行して今日に及んでいる。
 去る三月十二日大協石油株式会社取締役会長密田博孝氏から「燃ゆる水献上の図」の複製画(上掲写真)が奉納された。この原画は同社が設立卅(さんじゅう)周年記念として前田青邨画伯に描いてもらったもので現在、同本社に保管されている。
 この作品は、大きさ百号(編集注:約162cm×112cm)あり、大日本印刷株式会社の複製技術によって原寸大に複製したものである。
(昭和51年7月1日「志賀」第96号)

臭水の火災は中大兄皇子の教えで鎮火した。

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」5

近江神宮「志賀」第276号
臭水(くそうず=燃える水)の火災は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の教えで鎮火した。

志賀


これは大化4年のことと伝えられる。天智天皇は臭水の神を祀り、清砂を撒くことを教えた。黒川の村人が燃土燃水を献上したのは、これに対する感謝の念を捧げることで、即位を祝賀したという。

壷

近江神宮からは毎年「清砂」が送られてくる。これにこたえて燃土と燃水が奉献される。近江神宮から送られてきた清砂をためた壺。新潟県胎内市(黒川村)郷土文化伝習館にて。

平成3年度 近江神宮燃水祭

7月5日(金)午前11時斎行

秋七月 越国 燃土と燃水とを献る
(あきふみづき こしのくに もゆるつちともゆるみずとをたてまつる)

(日本書紀、天智天皇七年の条)

燃水祭と石油
『日本書紀』天智七年(六六八)の条に、
「秋七月、越国より燃ゆる土と燃ゆる水とを献る」
と記録される。「燃ゆる土」とは瀝青であり、「燃ゆる水」とは石油のことである。実にわが国文献における瀝青・石油の初見であった。(編集部注)
「越国」は、現在の新潟県北浦原郡黒川村であったといわれる。黒川村の由来は、昔、黒い川が流れる程、臭水(くそうず・原油)が湧き出したことによると伝えられている。
 同地方には、この臭水の原に落雷等によって火災が発生、村人が被害を被っていることを知られた中大兄皇子が、大化四年、使を出し、臭水の神を祭り、清砂を撒くことを教えられ、工事が行われ、火が鎮まったとの伝承もある。
天智天皇七年に村人が燃土燃水を奉献したのは、これに対する感謝の念を捧げることにより、御即位を祝賀したものという。
 近江神宮では、この由緒にちなみ、毎年七月、全国の石油関係者の参集のもとに燃水祭を斎行、産業社会の存立の母胎ともいうべき石油の祖神に感謝のまことを捧げる。これに先立って、新潟県黒川村臭水遺跡において、燃水祭・原油「採油の儀」が斎行され、同村より近江神宮大前に「燃水献上の儀」が執り行われている。
(平成3年7月1日「志賀」第276号)

編集部注 :「燃える土」の表現は瀝青の他にも石炭、泥炭とゆれていますが、近江神宮広報誌「志賀」の発行責任者である吉田健一氏は、平成2年の記事で、「燃土とは天然アスファルトのことである」と記している。(日本防水の歴史研究会 Y.M.)

防水の祖神・天智天皇を祀る近江神宮の夏は忙しい。

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」6

近江神宮「志賀」第288号

画像の説明

日本の時刻制度を定めたのが天智天皇で、その時刻原器としたのが、最古の時計である漏刻(ろうこく)。
漏れる水によって時間を計る水時計だ。この日を新暦に置き換えたのが6月10日の時の記念日。
もうひとつ大事なのが7月7日の「燃水祭(ねんすいさい)」。燃水祭と防水との関わりはルーフネットのメインテーマです。
>>参考ページを見る「日本書紀にみる防水の起源」

画像の説明 

近江神宮が毎月発行していた(現在休刊)広報誌「志賀」の夏の号には必ず「燃水祭」がトップ記事として登場します。今回紹介するのは平成4年7月1日発行の第288号。これです。

画像の説明
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近江神宮  燃 水 祭

平成四年七月七日(火)午前十一時
近江神宮大前にて斎行

「越國(こしのくに)、燃土(もゆるつち)と燃水(もゆるみず)とを獻(たてまつ)る。」

日本書紀天智天皇七年七月の条に記される「燃土(もゆるつち)」とは土瀝青(どれきせい)、いわゆる天然アスファルトの事であり、「燃水(もゆるみず)」とは臭水(くそうず)、原油の事である。近江朝に始まる我が国石油の歴史を深く想いつつ、二〇世紀文明を支える基幹エネルギー石油。その祖神にこの日、感謝のまことをささげるのである。

天智天皇七年は、近江大津京に遷都された明くる年で、天皇御即位の御年である。この年の大津宮における主な行事は、蒲生野への遊猟の事、武を講じ牧を置き馬を放たれた事、更に「近江令」の制定、崇福寺の創立に加えて、越の國より燃ゆる土燃ゆる水が献上されている。

越の国は今日の新潟県北部に位置する黒川村であったといわれており、黒い川の流れるほど、臭水(石油)が湧出したことから「黒川」の地名がついたと伝えられている。黒川村には今日も「近江新」という地名。又「白竜山江州寺」という寺院が在る等、近江とのゆかりまことに深いものがある。

画像の説明

祭典は午前十一時斎行。新潟県北蒲原郡黒川村々長より燃水奉献の儀があり、続いて殿油業界(石油業界?編集部注)代表による献灯の儀、宮司祝詞奏上、日本書紀奏上と続く。

文化の火、石油。そのエネルギーの上に成り立つ今日の文明社会。天智天皇の御世に火が点じられた「燃水(もゆるみず)」は、今世紀人類の生活と活動を支える基幹エネルギーとなっている。

今日の文明社会の原点となるこの日、ゆかり深き天智天皇の大前に往時の心そのままに「燃水」を献上、今日の繁栄を謝しつつ、更なる発展を祈念し奉るのである。
(志賀 第288号 平成4年7月1日)

画像の説明

燃水祭式次第
平成四年七月七日 午前十一時斎行

時刻宮司以下祭員参列者所定の座に着く
先  修祓
次  宮司一拝
      (諸員之に倣いて一拝)
次  祢宜以下神饌を供す
次  清和四条流包丁式奉納
次  燃水奉献
   新潟県北蒲原郡黒川村村長
次  献灯
次  宮司祝詞奏上
      (此の間諸員起立)
次  「日本書紀」奉唱
      (此の間諸員起立)
次  舞楽を奏す
次  宮司玉串拝礼
次  参列者玉串拝礼
次  祢宜以下神饌を撤す
次  宮司一拝
      (諸員之に倣いて一拝)
次  宮司挨拶
次  宮司以下祭員退下
   祭典後、記念撮影、直会
      (於 太陽の間・浦安の間)

7月7日は燃水祭! 防水の起源にかかわる大事なお祭り。

近江神宮からお誘いを受けています。

近江神宮「志賀」が語る「燃水祭」7

近江神宮「志賀」第120号

画像の説明

近江神宮の保育園の子供たち。前2基は日本最高精度の日時計。後ろに水の流れているのが、日本最古の「漏刻(水時計)」を復刻したもの。漏刻の各升の中で時を刻む水は「漏水」。その時の制度を定めたのが天智天皇。その日が時の記念日。すでに天智天皇は防水の祖神。「漏水」云々のこじつけは必要ないでしょう。

ウェブマガジン、ルーフネットが現在の形で、本格稼働して、ちょうど1年。防水の御祭神近江神宮にその報告とお礼に、さらには7月7日の燃水祭の打ち合わせに、行ってきました。

息苦しい程の新緑の本殿で、お祓いを受けた後、燃水祭にどんな形で参加するか相談しました。間もなく報告します。
今回の志賀はこれ。

近江神宮  燃水祭のいわれ

 
 日本書紀に「天智天皇七月七日越の国から燃ゆる土燃ゆる水をたてまつる」とあるは、わが国文献に於ける石油の初見で、千三百年のむかし今の新潟県黒川村から石油が献上されたことを伝えておる。天智天皇をお祀りする近江神宮では毎年七月七日石油の祖神に感謝のまことをささげ、世界の平和、文化の発展、業界の繁栄を祈念して燃水祭を斎行している。
 因みに黒川村へは昭和四十七年新潟県植樹祭に際し、又当神宮へは昭和五十年滋賀県植樹祭に当たり共に天皇・皇后両陛下の行幸啓を仰いで居り、昔も今も変わりない御神縁のただならぬ幽契を痛感させられる。
 本年も来る七月七日午前十一時より近江神宮の大前に於いて「燃水祭」が厳粛に心深く斎行される。
(写真は昨年六月に近江神宮境内に完成した〝燃ゆる水献上の絵図〟)

画像の説明

燃ゆる水の献上地について

 日本書紀天智天皇の項に、「越国より燃ゆる土と燃ゆる水とを献つる。」と、しるされているが、その献上地が何処であるかは未だ明らかにされていない。
 一説には越の国、今の新潟県北蒲原郡(きたかんばらぐん)黒川村でああろうといわれる。
 試みに日本地名大辞典の「黒川村」の項を引いてみると、
「天智紀七年に越国燃水を献ずと見ゆるは蓋しこの地ならん云々」
とある。
 黒川村は、むかし黒い川の流れるほど草水(くそうず・原油)が湧出したことから、この地名が付いたと伝えられているところ。
 この黒川を天智紀の石油献上地と推定するの記述は、江戸時代中期の「和漢三才図会」をはじめ、「東遊記」、「越後巡見記」、「産業事蹟」等々にも参考記事が見られる。
 因みに、この黒川村には「近江新」と称する地名や、「白竜山江州寺」と称する寺がある。
(志賀 120号 昭和53年7月1日)

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