「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

『選択』に連載中の紺野大介 清華大招聘教授とルーフネット

『選択』に連載中の紺野大介 清華大招聘教授とルーフネット

紺野大介氏とルーフネット

ルーフネット編集長が29年間お世話になった防水専門出版社に入社したのは33年前。建築の中でも防水工事という専門分野に特化した雑誌=「月刊防水ジャーナル」と聞いて入社したのに、与えられたミッションは「機械用密封装置=シールの専門誌を創刊するための市場調査」というものでした。1年間の調査の結果、建築用シーリング材の専門新聞「シーリングジャーナル」の軒先を借りる形で出発しました。

この時、新聞の題号は建築用・機械用すべてにまたがるため「シールエージ」と変更しました。しかし同じ「密封」をキーワードにするとはいえ、建築と機械では、マーケットの様相が違いすぎました。そこで機械用シールは、周辺分野に向かってより対象を広げ、潤滑・摩擦にかかわる月刊雑誌「トライボロジー」として独立船出しました。

初めてお会いしたのは紺野さんが荏原製作所の技術部長だった頃です。すでに発刊していた「月刊トライボロジー」誌に、メカニカルシールの原稿執筆を依頼したのです。そして雑談の中で氏が並はずれた音楽知識と鑑賞能力をお持ちであることを発見しました。原稿の相談を口実に音楽の話、LPレコードの話で楽しい時間を過ごした記憶があります。トライボロジーと言う新しい分野を、わかりやすく解きほぐす方法を模索していた時期。正直にいえば、「自分の好きな音楽の話をどうこじつけて、誌面にもぐりこませられるか」を考えていた時でしたから、「ミュージックトライボロジー」の企画は即成立、連載が始まりました。毎月原稿を受け取りに行くたびにお話しできるのがとても楽しみでした。

紺野さんはその後、活躍の範囲が広がり、日に日に忙しくなり、連載は12回で打ち切ることになりました。また、紺野さんは友人、知人に求められるまま、連載原稿のコピーを渡していたそうですが、あまりの煩雑さに耐え切れず、しばらくしてそれを単行本「音楽と工学の狭間で~ミュージックトライボロジー~」として連載当時のペンネーム・和求音理行のまま発行しました。

まもなく記者は、このホームページの挨拶にあるような理由で、この会社を退社し、紺野さんともブランクがありました。そしてウェブマガジン「ルーフネット」を立ち上げるにあたって、屋根・防水の問題を環境、教育、文化の面からとらえ直そうと考えました。

そして、紺野さんが雑誌『選択』に連載中の記事から、ルーフネットと関わりの深い記事を転載させていただくことにしました。初出となる今回は、2008年2月号より「マイスターへの敬意と理科教育」を3回に分けてお届けします。

「政策決定者に最も大きな影響を与えている雑誌」といわれる会員制総合月刊誌『選択』については、次回お話します。

ROOF-NET編集長  森田喜晴

編集長署名

あるコスモポリタンの憂国   (『選択』2008年2月、連載13-1)

清華大学招聘教授 紺野 大介

マイスターへの敬意と理科教育(1)

 ミュンヘンでディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウの歌うシューベルトの歌曲「美しき水車屋の娘」を聴いたことがある。詩人W・ミューラーの質朴清新な叙情性を謳ったものだが、二十曲にも及ぶこの詩は一つの明確な筋をもっている。即ちドイツ中世から続いてきた職人の組合があり、ある職業を志す若者は、先ず奉公にでなければならない。そこで何年かを勤め上げ、主人から許可が出ると今度は同業者の職場を遍歴して経験を積む。充分力がつくと、厳しい試験を受ける。そこで合格すると晴れて親方職人(マイスター)になれるのだ。この歌曲の筋は水車動力による「粉引き職人」を志す若者の遍歴への旅立ちから始まるのである。こうしたドイツのギルドやツンフト制度の歴史や仕組みを知って聴くと、若者がその遍歴の途上で出会う慕情が一段と叙情味を持って伝わる。円熟期のディスカウのバリトンは文字通り名歌手(マイスタージンガー)の雰囲気を彷彿とさせた。

 一九八五年頃、この時ミュンヘン近傍にあるメカニカルシール・メーカー、ブルグマン社(GmbH)の文字通りアテンドを受けていたのである。メカニカルシールは遠心ポンプやコンプレッサ、ガスタービンなどにターボ機械のシール部分に多用されている。ターボ機械は、ケーシングといわれる固定された圧力容器の中に羽根車が取り付いた回転系がり、内部流体によるエネルギー変換で所定の仕事をする。従って必ず固定体と回転体の接点が生ずる。流体が硫酸、硝酸、液体酸素やナフサ、エチレンガスといった場合、この接点(=シール面)から内部流体が漏洩すると大事故になる可能性が常時ある。一例だが時に新聞沙汰になる石油精製・化学などのプラント大火災の多くがこのメカニカルシールの事故なのだ。「職人」とは実に良い響きを持っているが、この世界でもエンジニアがマイスターレベルになるのには十年以上の勉励と経験が必要なのである。
(つづく)

2010/08/02(月) 24:44:24|MUSICフォーラム|

雑誌『選択』と紺野大介氏について

『選択』(せんたく)は、選択出版株式会社の発行する会員制総合月刊誌。創刊1975年。発行部数6万部。
「政策決定者に最も大きな影響を与えている雑誌」、ジャーナリストが「書いてみたい雑誌」として、名指しする雑誌、という評価が有る。記事は連載を除いて、執筆者は原則として無記名、現役の新聞記者が主であるとされる。筑紫哲也は、以前執筆者であったことを公表していた。小泉純一郎元総理や、奥田碩トヨタ自動車相談役、立花 隆 、椎名 誠などは自らが読者であることを公表している。
ある大手企業の若いリーダーは、それまで「ルーフネット」と言っても見向きもしなかったが、「選択編集部の許可を得て、選択に連載中のある人の記事を載せています」と言ったとたんに、「どれどれ」とルーフネットの記事を読み始めた。

そんな評価はどうでもよいのですが、ルーフネットが、高校生・大学生(もちろん社会人にも)にすすめる3冊の雑誌が 1.ビッグ・イッシュー、2.母の友、3.選択-です。これらを読んで、自分の感覚に正直になれば、テレビ・新聞情報に踊らされないですみますね。

選択に紺野さんの連載「あるコスモポリタンの憂国」が始まったのは2007年。その時の様子を、選択の編集長は、編集後記でこうしるしています。

〈……紺野大介さんのオフィスを訪ねたのは弊誌編集部に入った直後だった。「中国の至宝」清華大学教授であり、中国共産党首脳と自在に面談が叶う屈指の日本人だが、偉ぶる風はない。できたての『啓発録』をもらい、橋本左内の話をした。時間があっという間に過ぎた。紺野さんは多忙を極め、時間を奪うのは犯罪のように感じる。なにしろ創業支援推進機構理事長であり、北京と東京を行き来しながら、日中科学技術交流協会常務理事をはじめおびただしい役割をこなす。捻出してもらった時間に会話を重ねていくうちに新連載「あるコスモポリタンの憂国」の構想が生まれた。……〉

あるコスモポリタンの憂国   (『選択』2008年2月、連載13-2)

マイスターへの敬意と理科教育(2)

シールメーカー世界最高峰ブルグマン社の副社長兼CTOエアハルト・マイヤー博士は生きながらにして神様視されてきた。彼の名著『メカニカルシール』は私の知っている限り二十七ヶ国語に翻訳されており、この方面での「バイブル」となっている。古い友人であり学問的集大成者でもある博士宅を訪れ、表札の前に立った。

 一九六九年以降数え切れないほど訪独しているけれど、ドイツ人の肩書き好きは日本とは比較できないほど。「マイスター」は少し制度疲労が起きているにせよ周囲から敬意が払われる。ダイムラーもポルシェもみなこの仕組みの中で育った。また「ドクター」も名前の一部である。若かりし頃ドイツであるDr.をMr.と読んで教養を疑われた苦い経験もある。その徹底振りは名刺だけでなく自宅の表札にまで及ぶ。帰属社会における肩書きに無関係に、表札にDr.Ing.「工学博士」やDiplomaを付けるのはごく普通。マイヤー宅も同様だった。因みに大学教授の場合は表札に「Prof.Dr.」とある場合も多い。ドイツの場合、この大学教授も実はマイスター制度と同じ概念に立脚しているといえよう。教授は研究者としての業績を示すだけでなく、親方職人同様、後進の研究者を育成する重い義務も負っている。日本では誰かの推薦で簡単に教授にする大学が数多い。また世の波に浮かぶように、後進の指導など無頓着にテレビのクイズ番組などに嬉々として出演している教授もいるようである。しかしドイツではマイスターの資格同様、教授を志す人は先ず修士号を得、次には博士号を取得する。その後、後進の指導力などを含めた厳しい教授資格試験に合格する必要がある。さらにこの資格を取得しても、未だ〝教授〟とは名乗れず、所定の大学で教授のポストを獲得後、晴れて「Prof.」と名乗れるのだ。ドイツの大学数は限られており、日本、米国、中国のように「助教授」や「准教授」というポストもない。「教授」と名乗るにはマイスター同様、難関なのである。

 ごく些細なことであるが、日本のテレビで生物や動物の生態や環境番組の解説者として博士が出てくる場合がある。それが欧米人の場合NHKは特に顕著であるが、キャスターは殆ど必ず「Dr.」(博士)を付けて敬称する。しかし同じ番組で日本人のDr.が出てくるとMr.(さん)呼びするのだ。日本で学位を取得したドイツ人もいれば、ドイツで学位を取得した日本人もいる。何故なのか?日本在住の欧米人に聞かれたことが何度かあるが、無論答えられなかった。また昨夏、米国の著名な環境学者レスター・ブラウン氏が来日した。日経ホールで講演拝聴後、ブレイク時に氏とロビーで簡単な立ち話をしたので覚えているのだが、その晩NHKの七時半の番組に出演。略歴によればブラウン氏は正確には博士でないけれども、女性アナウンサーは何故か「Dr.ブラウン」と呼んだのである。
(つづく)

2010/08/12(木) 24:44:24|MUSICフォーラム|

紺野さんの もうひとつの顔

中国の頭脳

清華大学のこと
「清」王朝崩壊から孫文の中「華」民国創設に移行する1911年、辛亥革命時に創立された中国ナンバーワンの大学。1000校もある国立大学の頂点に位置する。紺野さんは朝日新聞社から出した著書「中国の頭能・清華大学と北京大学」(写真)の中で、「科学技術立国を目指すこの国の秘密は大学にあった。清華大学はまさに中国の知能発電所である」と述べている。

紺野大介(こんのだいすけ)氏略歴
1945年(昭和20年)2月20日満州奉天市生まれ。65歳。東京大学大学院工学系研究科修了、工学博士。1994年以来中国北京の清華大学に教授として招聘され現在に至る。同国立トライボロジー研究所終身教授。特定非営利活動法人創業支援推進機構理事長。日中科学技術交流協会常務理事。2000年までセイコー電子工業(株)取締役事業開発本部長を務め、関連会社、関連子会社の会社管掌役員等兼任で歴任。この間、通産省工技院マンガン大プロジェクト作業部会長、日本工業規格改定委員会日本機械学会代表、(財)新世代研究所評議員など歴任。'00年7月に創業支援推進機構をNPO法人として立ち上げ(略称ETT)理事長に就任。
【専門分野】流体力学、流体工学、流体機械、流体精密機械、トライボロジー。
【最近の研究】狭義には、民間力による日本の国際競争力の蘇生。広義には、日本人の民度改革の推進。

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紺野さんのもう一つの顔
幕末の英傑、橋本左内15歳の著作「啓発録」(写真左)、同じく吉田松陰、処刑前夜の著作「留魂録」(写真右)を英完訳し世界に紹介。

あるコスモポリタンの憂国   (『選択』2008年2月、連載13-3)

マイスターへの敬意と理科教育(3)

 神様マイヤー博士は、エンジニア一家の子として生まれ育った。彼の祖父は発電用水車のマイスターであり、父は三十万都市Bochumの水道局技術部長を務めた。彼の叔父は著名な鉄鋼会社Kruppのチーフ・エンジニア、長兄もDiplomaでドイツ陸軍司令官を勤めた。氏自身は1956年シュツッツガルト工科大学で機械工学の博士号を取得後、いったん西独のシール会社に就職。一九五九年に再入学して晴れて「Dr.-Ing.」を取得した。数年間渡米し研鑽を積み帰国後ブルグマン社に参入。彼のトレードマークになっている「Hydrodynamic Thermal Groove」(シール面における発熱回避のための流体動圧溝)を発案、地方の一パッキンメーカーを世界的シールメーカーに到達させたのである。

 マイヤー氏にこの熱低減溝の発想がどこからきたか、ミュンヘン郊外レングリーズにある自宅で聞いたことがある。氏によればシカゴのシールメーカーで研究していた時の赤レンガ作りの建物は、禁酒法時代にアル・カポネが住んでいたビル。自分の部屋の縦壁にマシンガンの弾痕がアチコチ残っており、あるとき一筋の弾痕の壁表面と溝底部に温度差があることにヒントを得た。これを実際の形にするのに数年、製品にするのに更に数年、市場に受け入れられるのに更に数年の汗と努力、合計十数年の歳月が流れたとのことであった。

 技術に文化の香りがするまで長時間かかる事情は我国でも同じである。半導体、バイオ、環境、エネルギーなどの領域の如何に拘らず、難しい(?)といわれる「理科」を理解し、キチンと学問を積み専門を身につけ、帰属社会で信頼と実績を勝ち得、見識・力量とも一般人のレベルを遥かに超えた世界に通用するマイスターのような至宝のエンジニアは日本に沢山いる。しかし中国のように国宝級の処遇があるわけでもなく、ドイツのマイスターのような敬意も払われていない。享楽的、投機的、スポーツ的、また他人の褌で相撲を取る管理的なもの等へのマネーや富の流れが顕著な現代日本の風潮の中で、子供達への理科教育不足が声だかに叫ばれている。大半のメディアがこの風潮に拍車をかけ、あるいは主導している中での理科教育振興への示唆は、子供への「虚構」というより「詐欺」に限りなく近い。

マイヤー博士とその家族

 子供は大人の背中を見て模索しているのだ。教育手法を除けば、不適切でない処遇やマイスターのような敬意が払われるだけで、子供達の多くは目を輝かせて自然と理科へ進むであろう。
2008.2選択

写真:マイヤー博士(左端)とその家族(1997年9月、自宅にて)

2010/08/23(月) 24:44:24|MUSICフォーラム|

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載15)

ルーフネットの選択です

ケンブリッジの当たり前の次元

精華大学招聘教授 紺野 大介

選択表紙

 「日本のメーカーに未来はあるか」という主題で英国ケンブリッジ大学から招待講演を依頼されたのは一九九六年晩秋のことである。長期間のわたるバブルがはじけた影響で当時の経済指標を示す諸数値が最悪の状態。いわば日本経済全体が打ちひしがれていた最中であった。

 メーカーで重厚長大から軽薄短小までモノ作りを経験してきた。しかしそうした体験を踏まえ、日本のモノ作りを分析しても、かえって抽象的な知見しかえられず説得力に乏しい。それよりも宇宙船地球号日本丸的な「地球規模から考えた日本の未来」という視点が必須であり、この方面の知見が備わっているかどうか自問自答したものである。何故なら当時、大阪ガス・エネルギー・文化研究所の倉光弘己氏が中心になり纏めた一大調査報告書『ジオ・カタストロフィ(地球規模の人類の破滅)』(CEL. Vol 18 Nov. 一九九一年版)、および米国マサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院のシステム・ダイナミックス・グループにより纏められたプロジェクト「成長の限界」の改定版『限界を超えて』(一九九二年版)の二冊。この和洋両書によって、人類生存の可能性希薄化についての重い衝撃をもたらしていた時期だったので。地球の限界という形で、人間の生存の限界を実証する深刻な客観的データや推論の信憑性に関する圧倒的な迫力を両書は持っていた。後者では特に為政者達が旧態依然とした「経済成長何%のお題目」を公約に掲げ、それを御用学者達が体裁を繕っている空しさ、稚拙さについても言及している。この両書は、突き詰めていえば(このままなら)「人間の存在理由は喪失」し「〝今〟の人類が滅びた方が、地球が元の美しい地球に戻れる」―――という強烈なメッセージを発していた。講演に際し、こうしたカオスの中の秩序とでもいったものを見出せず躊躇があった。しかし大学側も私の煩悶は織り込み済みだったようである。友人の勧めもあり「招待講演」だと割り切りロンドンから列車に乗ったのである。

画像の説明

 講演はケンブリッジ大学の日本研究センターで行われた。聴講者はアングロサクソン系同センター研究生と指導教官(チューター)に加え、経済学部大学院生、客員フェローの資格で在籍していたシンガポール、インド、中国、台湾、日本の大学教授など国際色豊かな数十名。マイクロマシンなど先端技術にも触れ「匠の国」のモノ作りとその精神など言及したつもりであった。Queen’s English が標準の中で、白洲次郎流のアフェクティションなどとは程遠い、訥々たる講演二時間。途中コーヒーブレークでなく完全なワインブレーク。講演途中に? と、少し驚いているとチューターは
「ケンブリッジのユーモアです」
―――とのこと。苦し紛れに
「これはフランス・ワイン?」
「いいえケンブリッジ・ワインです」
 グラス片手に僅かにたじろぐやつがれに対し、矢継ぎ早に質問が飛んだ。彼らにとって量産数などで世界的な時計メーカーとして認識されているセイコーの CTOという立場もあったかもしれない。半導体など日本の先端技術メーカーは、ドングリの背比べのように、どの会社も同じようなR&D投資にそれぞれカネをかけている。「何故協力して日本連合を構築し対海外戦略を組まないのか?」、「国家全体を考えたとき縦型共同体社会の利点は何処に存在するのか?」、「(彼らがあると思っている)国家戦略に各大企業はどう関与しているのか?」、「優秀といわれる日本の官僚は現状機序をどう仕掛けるのか?」 ―――といった質問としては豊穣な内容で、ワインブレークの時間はあっと言う間に過ぎてしまったのである。

 ブレーク後の後半の講演も質問は延長され、予稿集はかなりスキップしたまま終演。地球環境マターもあるにはあった。しかし若い研究生から「日本は特許、特許というけれど、もっと普遍的価値に対し貢献すべきではないか」といった類の質問が多数あった。例を挙げ「ニュートンからホーキングに至るまで基礎科学の原理など人類共通の普遍的価値を有する知的財産。こういった普遍原理を特許に換算した場合、日本はただ乗りである。もし我々が特許料を請求したら破産するのでは?」―――といったキツイご意見もあった。

 いつだったかケンブリッジ大学で「在学中に研究したものは全て失敗」という論文が博士論文の中の最優秀賞を受賞した。この論文は研究したものがなぜ、どうして失敗したかを克明に分析したペーパー。「失敗の研究」を評価する大学の柔軟性が凄いのである。日本の大学ではありえず、あってはならず、文部科学省からの研究予算も下りなくなるだろう。ここが一流と三流の分水嶺。外国への安っぽい献金など最小限とし、カネのあるうちに研究者の縮み指向の撤廃と、競争的資金の全体最適に向けた政策的誘導が問われている。ケンブリッジ大学のこうした学問や研究にたいする姿勢が、例えばノーベル賞受賞者数で大学世界一の名声を獲得しているのであろう。

 重い議論の交換だったが大学側は満足げで再度の講演要請もあった。宿舎としてニュートンが学んだことで有名なトリニティ・カレッジの、或るゲストハウスが用意されていた。途上チューターはこのカレッジに付置された湖畔に静かに佇むレン図書館(The Wren Library)を案内してくれたのである。ここはロンドンのセントポール寺院などを設計した建築家サー・クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)が、トリニティ・カレッジのために設計し一六九五年完成した図書館。学内に多数ある図書館の一つだが、ここだけでニュートンの余りに著名なプリンキピア〈自然哲学の数学的諸原理〉、シェークスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」などの原典、フランシス・ベーコンやバートランド・ラッセルといった世紀の哲学者達の書籍や使用したペン、英国の最大富豪ロスチャイルド家の文章コレクションなど、知能発電所として異次元の圧倒的重量感があった。また用意された宿舎は古城然とした特別な貴賓室。そこは二週間前までチャールズ皇太子が滞在していた広いスイートルーム。執事によると一年前まではダイアナ妃も一緒に寝泊りしていたトポスなのである。八メートル程の高い天井と年代ものの家具付きの広い居間。ダイアナ妃も共に就寝したであろうそのダブルベッドはかなり高く一・七メートル以上。やつがれも脚立を使ってよじ登り、「大学」がもつ桁違いの全体像に何度か寝返りを打ちながら就寝した。

レン図書館

 十二世紀の大学創設。日本の源平合戦の時代であり、学内に警察権もワイン製造権もあった。現在の名誉総長はエリザベス女王夫君エジンバラ公である。翌日チューターは見送りながらいみじくも語った。「ここから首都ロンドンまで約九十キロ。実はケンブリッジ大学が所有する土地だけを通ってロンドンまで行けるのです」。―――トリニティ・カレッジの〝college〟も「修道院のような学寮」という意味で、「日本の単科大学という意味ではない。日本の大学も〝University〟と訳してはいけないのかもしれない。(写真)トリニティ・カレッジのレン図書館
2008.4 選択

  • この企画は、雑誌「選択」に紺野大介氏が連載されている「あるコスモポリタンの憂国」から、ルーフネットの読者に読んでほしい記事を選び、著者と「選択」編集部の許可を得て転載しています。

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載37)

真の文化人とは本職以外で一流の技芸、見識を身に付けた人

「選択」に連載中の紺野大介清華大学招聘教授の記事をどうしてルーフネットに転載するのですか?という質問がありました。青の答えはきわめて単純。読んで欲しいからです。20年前、紺野さんに書いていただいた音楽随想が、今読んでも古くならないだけでなく、面白い。面白い理由は、単に圧倒的な知識やトンでもない経験によるものではありません。その根っこに「武士道」高い「志」を感じて、はっとするからです。

人を動かし、世の中を変えるのは、知識、経験、肩書き、ノーベル賞、勲章、だけではありません。もちろんお金や、美味しいもの、美しい人に心動かされますが、やはり「志」ですね。
今、その20年前の音楽随想を増補改訂を計画中です。ここに織り込まれた技術論や当時の政治・経済・社会の出来事に対する紺野さんの視点は、今読んでも新鮮です。だから2007年から始まった雑誌「選択」への連載「あるコスモポリタンの憂国」を転載する時、数年のタイムラグは問題にならないと確信しました。ルーフネット「ミュージックフォーラム」では、「あるコスモポリタンの憂国」から、防水関係者にも読んでもらいたいものを選んで、載せる事を紺野さんと、選択編集部からご許可いただいています。 

フィンランドと或る音楽的邂逅

清華大学招聘教授 紺野 大介

37表紙

 フィンランドは「ダボス会議」として知られる世界経済フォーラム(WEF)が毎年発表している国際競争力世界一位の常連の国。また子供の学習到達度指標で知られる国際学力調査(PISA)で世界一位の国でもある。何度か訪問した。特に初回ヘルシンキ空港に降り立った時は真冬であり、冷気が顔に突き刺さり、タクシーに乗った後でも体温が奪われる感じが癒えないままホテルへ。そして内部のサウナへ直行した。
 人間の体温(環境に左右されない核心部体温)は概ね三十六・五℃。手足の先は環境に左右されて三十℃程度。「人間の許容限界事典」によれば、核心部の低温方向は三十℃以下で意識消失し、二十℃前後で心臓からの血液駆出が不能となり死に至る。因みに高温方向は四十二℃以上で十数時間経つと死に至る危険性が高くなり、四十四℃を超えると短時間でも酸素系に不可逆変化が生じ回復不能となる。なのにサウナの温度は概ね九十~百℃であり、入れば即死に近い筈。しかしむしろ快適である。湿度が一〇%前後と極めて低い上、毎分二〇~四〇㏄に及ぶ大量の汗が、半導体ではないが皮膚表面に薄膜を作り、その保護フィルムが皮膚を乾燥から守る。汗が乾燥空気中に蒸発するとき気化熱を奪い、エネルギーを消費し皮膚が冷却され安全なのである。また二千年の歴史あるサウナはフィンランドでは重要なトポス。家庭での接客や、時には企業の決断や人事が決定される場となることもある。
 或る時サウナに一人入っていたらフィンランド北の町バーサ(Vaasa)から来たと言う人物が入ってきた。失礼ながら白熊のような巨人。彼は目で同意を求め、熱く焼けた花崗岩に水をかけ蒸気を発生させた。そして白樺の枝葉で四段腹の身体を叩きながら「フィンランディア・ホールでシベリウスの音楽を聴いてきた処だ」と話しかけてきた。フィンランドの混合林は深閑としており、シベリウスの音楽は、森の神秘性、可視化不能の神話的創出力とでもいうべき魅力がある。適当に相槌を打っていたら白熊氏の話は中々止まない。そこで「モーツアルトやリスト同様、シベリウスもフリーメイソンだったそうですネ」―と言った途端、四段腹をよじって近寄り、凝視。一段目と二段目の肉塊のくびれ部分からカスケード状に大量の汗をしたたり落としながら更に饒舌になった。ヘルシンキ・フィルハーモニー首席指揮者レイフ・セーゲルスタム(Leif Segerstam)という大物指揮者を熱っぽく語りだしたのである。そのセーゲルスタム、元大関・小錦のような巨漢体躯に、首から上は写真で見る晩年のブラームスの顔を載せたような風貌なのだそうである。

37タイトル

 高校時代だったか。日本にテレビが普及し始めた頃、クラシック番組に回すと、日本人離れしたマスクの指揮者・渡邉暁雄氏の目鼻立ちが画面いっぱいに映されていた。あれから約三十五年の一九八九年、南青山の或る音楽サロンでお会いしたことがある。奥様の信子夫人もご一緒でしばしワインを傾けながら三人でかなりの時間、歓談した。
 渡邉暁雄氏は東京音楽学校に学び、東フィルの初代指揮者となり、在任中に米国ジュリアード音楽院に留学。日フィルの創設初代音楽監督となった。小澤征爾氏よりずっと前、日本の先駆けとして多くの古典音楽を我国に紹介した方である。信子夫人は鳩山一郎元首相の五女。従って鳩山由紀夫現首相は甥にあたる。その鳩山氏にも薫風会などで以前何度かお会いし、面識がある。
 氏はともかく、信子夫人は品位高く清楚な感じであり、確か同じ東京芸大の油絵科でルノワールの高弟としても有名な梅原龍三郎の門下生であった方。サロンではお二人のジュリアード時代、音楽院の建物のコーナー等で肩を寄せ合いながらサンドイッチを頬張ってのつつましい生活の話題もあった。氏はまた壮年期を過ぎた頃、心臓の一時停止で電気的ショック療法、大腸ガンの発見・手術など三度他界の憂き目に遭遇したが、その都度夫人の気転と深い愛情で回生したと、夫人の方へ優しい眼差しを送っていたものである。
 フィンランド人の母の国へは、殊の外、想い入れがある様子だった。本場のサウナの日常性、国賓として来日したコイビスト大統領に、日本人として唯一人側辺に侍ることを許可された際のエピソード、また作曲家コッコネンとも親しい友人関係で、「芸術」に対する両国間の認識の差にも話が及んだ。「コッコネンも芸術院会員であるが、フィンランドでは全分野を数えても僅かに十名、その中に音楽家が複数いる」「一方日本には芸術院会員は三部門で百二十名。しかし音楽は洋楽と邦楽に分かれ、後者が圧倒的に多く、洋楽では御本人を入れて五名、全体の四%しか占めていない…」といったエートスについて、淡々と述べられた。また母親からシベリウスの音楽をよく聞かされて育ち、彼の音楽の清澄で抽象度の高い内容に解説もあった。特に母親からの「静寂さに耳を澄ますものだけに感じ取ることが出来る沈黙」について省察的な口調で話されたのが印象的であった。
 指揮者氏は「工学や力学などよく分りませんが、本職を持ち、趣味で音楽をやっている方が羨ましい。それが文化人の証ですし、又そちらの方が純粋になれる…」と高踏的で思弁性強い体験を語られた。また私のマーラー初体験が氏であった旨も述べると、二回り以上も年長の氏は、「マーラーは人物が複雑で、演奏時間が長いことが指揮者にとって難しい。最近ではブラームスが以前にも増して身近になっていて、この格調の高さを改めて発見しています。こうした発見が指揮者の愉しみかもしれません」。―一期一会、その後一年程して渡邉暁雄氏は他界した。

渡邉暁雄氏

 フィンランドの指揮者セーゲルスタムはシベリウスの演奏を得意としているが、自らも交響曲を二百曲以上作曲している作曲家でもある。噂によれば、その体形からか、極度の飛行機嫌いの模様で独墺圏など大陸内での演奏は少ない。他方でカラヤン以上の音楽創りとの評判高く、独墺音楽を彼に席捲されるのを一部の人々が恐れているフシがあるとの風評も聞く。いつぞやシベリウスに関する渡邉暁雄氏との対話を、友人である武士道研究の日本の第一人者の一人で文化人、日文研(国際日本文化研究センター)の笠谷和比古教授に話した。氏は、セーゲルスタムを“セーゲル”と呼び捨てにするほど熱狂的信奉者。“セーゲル”がシベリウスやマーラーを演奏する情報が入ると、一泊三日・飛行機で聴く目的だけでヘルシンキに駆けつけ、陶酔し、論考し、サウナにも入らずピンポン帰りをするディレッタント振りなのである。
〝文化人〟が氾濫しているが、優秀な学者だから文化人なのではない。特別な芸術家だから文化人なのでもない。それらは本職で業績をあげた専門家であり、その中には非文化人もいる。真の文化人とは本職以外で一流の技芸、見識を身に付けた人をいうのだ、と愚考している。(写真)渡邉暁雄氏1919~1990

2010.2 選択

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載30)

ルーフネットの『選択』

SP

紺野教授の蔵軍団との作戦会議に同行する事になりました。報告をお楽しみに。
今回は「コンサートのマナー」です。中国、ドビュッシー、レーザービーム合戦、国家大劇場、鳥の巣、マナーとマネー。紺野ワールドをお楽しみください。「鳥の巣」と言えば、この設計者はここで行われた北京オリンピックの開会式に出ませんでしたね。
紺野教授の蔵軍団との作戦会議に同行する事になりました。報告をお楽しみに。

コンサートのマナー

清華大学招聘教授 紺野 大介

表紙

 昨年暮、北京の国家大劇場へ行った。「老朋友」の清華大教授がチケットを用意してくれ、ご家族と共にピアノ・ソロコンサートを愉しませて戴いたのである。北京の「車」事情はオリンピックで改善されたとはいえ、ラッシュ時には東京と同じ渋滞がある。北京市中心まで三十分程、遅れないよう地下鉄を三回乗り継ぐ。白髪がかなり交じったせいか、車内で若い女性に二回も座席を譲られた。北京の日常風景である。席を「譲る」行為と、周辺に配慮し「控える」行為は我国では同類のマナー。しかし中国では独立懸架のようでインバランスなのだ。二十世紀型道徳観に固執するやつがれなどは、バスの中の喧騒、狭いエレベータ内で周囲に気遣うことなく若者達が各々大声を張りあげ携帯電話で話すマナーの悪さには閉口する。
 国家大劇場は天安門広場にある人民大会堂の裏手にある。北京オリンピックに併せ昨年完成した。このエリアは一九五九年、当時の周恩来が「将来国民が西洋音楽の教養を身につけるように」と用意した場所である。英語呼称はNational Center for the Performing Arts。外観は「プトレマイオスの地球儀」のような半ドーム形状。設計は事前に世界の著名な建築家のコンペが行われ、日本からは中国でも極めて評価が高い建築界の知性派の巨匠・磯崎新が参画。どの思想にも左右されず、個々の国々の政治・社会・文化に深く抵触する建築芸術に、審査中の中国専門家達の多くが氏の設計を熱望した。しかし最後は政治判断とやらで、抗日色の強い江沢民が欧州の建築家を指名したのである。完成後の今日でも景観にそぐわないとして定常的批判がある。
 内部にチタンを多用した三日月状半球体構造は建築費総額五十億元(約七百五十億円)。オリンピック・メインスタジアム「鳥の巣」が三十五億元(約五百二十五億円)であり、中国の資本で中国の大地に建設した現時点で最もカネをかけた建造物とのことである。内部はオペラ、管弦楽、京劇など六つほどの多目的ホールに仕切られており、その一つに入場した。威圧的な三段構成の巨大パイプオルガンが客席を睥睨していた。

タイトル

 ピアニストは中国のトゥタイハン(Du Taihang;杜泰航)。中文印刷物によれば六歳でピアノを始め、十一歳で北京中央音楽院に入り、九二年渡欧。ロシアのアナトール・ウゴルスキー等に師事して九四年ハーグ国際ピアノコンクールで第二位に入賞しデビュー、ソロコンサートを続けるかたわら、アムステルダム・コンセルトゲボウ、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団などと協奏曲を共演しているとの記述があった。中国のピアニストといえば第十四回ショパンコンクールで中国人として初優勝した重慶生まれユンデイ・リ(Yundi Li;李雲迪)、国民的に更に人気のある瀋陽生まれのランラン(Lang Lang;郎朗)がいる。共に二十七歳。ランランは十七歳でラビィニア音楽祭のガラ・コンサートに於いて、アンドレ・ワッツ急病の代役としてピアノ協奏曲をシカゴ交響楽団と共演し「類希なる逸材」と絶賛された。先日もNYカーネギーホールで聴いたのだが、格別なコンクール入賞実績がある訳でもないのに、既に名人域に達している観のある強運なピアニストである。
 トゥタイハンの演奏曲目は先ずガルッピ(加魯皮)のピアノソナタ・ハ長調。バロック期のポリフォニーが色濃く残る軽快な旋律で開始された。しかし演奏が始まるとすぐ、周囲に何ら遠慮する様子もなく遅れてやってきた相当な人達が席へ。ガルッピの音楽と、木製フロアを叩くハイヒールとの喧騒音が続く。次にアルベニス(阿爾貝尼斯)の「スペイン組曲」からグラナダなど数曲。ここでも途中入場者があり、その都度聴衆の集中力が途切れる。音楽自体はスペイン地方の舞踏曲集でギター風の美しい音色だが、技巧が勝っていた。間断が十五分ほど。ピアニストは控室へ引き返す。しかし建築芸術が過ぎたのか、ノブ無しで無数の短冊状壁面ホール設計のためドア位置の見分けがつかない。この為、舞台フロアの檻に主役が閉じ込められ、出口を探すかのような一幕と爆笑があった。

 休憩後はドビュッシー(徳彪西)。驚いたことに第二部開始直前、コンサートホール背面に縦八m×横十mほどの巨大な白布が垂れ下がり、なにやら動画が映し出された。と同時にトゥタイハンはその画像を見ながら「映像第一集」/「水に映る影」のアルペッジオを幻想的な面持ちで弾き始めたのである。それがピアニストの要望なのだろうか? 自己芸術を「聴いて戴く」というよりむしろ「聴衆を啓蒙する」といった姿勢で、揺れ動く詩的な情緒を映像と同調させて弾く。画面はう水の如く、次から次へとまどろみの世界へ誘う。しかしコンサートのような即興的印象というクライテリアで比較すれば、人間の五感の中で聴覚は視覚に勝てないであろう。ピアニストの存在は会場の中で相対的に小さくなる。いつしか聴衆は携帯電話用カメラを取り出し巨大画面を写し始めた。視界に入ったこの十数名のマナーに対し流石に不快に感じたのか?―暫らくすると背後の聴衆からそれを阻止する明確な意志をこめて、赤色レーザーポインター(!)を使い携帯用ディスプレイ目がけて様々な角度から発射。無論小さすぎて当たらない。外れた赤色光は水淡色の巨大画面やピアニストの胴体や顔に当たった。次の「前奏曲第一集」の「沈める寺」。その振舞は一段と激しさが増した。ホール中央部に座ったため後席部は不明である。“通信状態”、即ち誰が発信源で誰が受信者なのか、視認性のある光なので罪も軽微なのかもしれない。しかし携帯ディスプレイ、白布画像面、ソリストとの間をランダムなレーザー光が瞬間移動する軌跡が各所で舞った。この時点ではレーザー発射人がソロコンサートの最大の加害者と化しており、一種異様な演奏会となったのである。最後はその映像がパソコンから取り込まれた出力投影とわかるクリック指示枠まで写ったおまけがついた。

国家大劇場

 我国演奏会の聴衆マナーが世界一であることは、リップトーク抜きで欧米の一流演奏家の多くが口をそろえて認めている。中国社会科学院は二年前、経済的に全体で「中国人が日本人に追いつくには五十年かかる」という報告書を公表した。しかし「中国人が日本人にマナーで追いつくにはそれ以上の年数がかかる」と思わせる、複雑骨折したような中国聴衆の各種のマナーは脳裏に残った。人口十三億人、中国の国家GDPは確かに世界第三位にまでなったけれど、胡錦濤の提唱している「八栄八恥」の道徳観はまだまだ奏功していない。マネーはともかく、マナーの移植には時間がかかるのである。
(敬称略)
2009.07 選択

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載17)

「やむにやまれぬ大和魂」に寄せて

蓮台寺の松陰 昭和42年 前田青邨 

松蔭
紙本淡彩 山種美術館

1854年ペーリーは軍艦7隻を率いて幕府に開港を迫った。25歳の松陰は3月27日下田で米艦に乗り込み、密航を願うも拒絶される。翌日自首し、萩に幽閉された。

決行直前の一週間、松陰は下田に近い蓮台寺温泉の村上医師宅に潜んでいた。机の本は「唐詩選掌故」。
村上家には今もこの机や行灯が保存されており、青邨はこれらを見て、画想を得たといわれる。
青邨が「燃土燃水献上図」を画いたのはこの2年後。

「已《や》むに已《や》まれぬ大和魂」の英訳

表紙

「留魂録」は吉田松陰の遺書である。五年ほど前に英完訳・製本化し、橋本左内著「啓発録」同様、海外の主要大学図書館へ寄贈した。翻訳家でもなく収入を得たわけでもない。むしろ出した。キチンと説明できればの話だが、欧米の知識人の多くは、特に幕末期の志士達には深い敬意を払う。この時代の日本人が輝き、自信を持っており、凜然としていたからであろう。右翼と見られずに愛国者と認識されることが非常に難しくなった今日の我国では、「留魂録」英訳など唐変木も極まっている筈。しかし長年の外国人との対話から、本書は海外に対し戯曲もどきに「日本人を舐めるなよ」といったメッセージも込めたつもりでいる。実態は精神的に何も歯止めがかからず、カネだけが頼りのボウフラのような法治国家となった心貧しい日本人に対し、「舐められるなよ」と鉾先を向けるべき世情だろう。
「留魂録」は読めば読むほど、人間として、こんなにも人に優しくなれるのか、こんなにも国を想えるのか、こんなにも自己犠牲が払えるのか――といった魂の叫びが聞こえ、現代の日本人へ重い警鐘を与えている。
 松陰は人生の大半を獄中で送った人物。それはペリー黒船到来時の国外脱出の躓きと失敗に始まる。国禁を犯した訳である。しかし潔く自首、下田獄から江戸獄へ護送される途上、高輪泉岳寺の前で赤穂浪士に捧げる――として詠んだものが次の歌である。
 かくすればかくなることと知りながら 已むに已まれぬ大和魂

タイトル

 この歌の英訳は新渡戸稲造の「武士道」〈Bushido, the Soul of Japan〉にある。初読はもう四半世紀以上前となるだろうか。碩学も極まる横溢した学識が縦横に展開され、その中にはキリスト、孔子、孟子、ヘーゲル、ニーチェからマルクスといった人物が「武士道」の外輪山のように表出し、引用され、吟味されている。いわゆるノーブレス・オブリージュ(nobless oblige)〈高い身分に伴う義務〉について、余すところなく遡及している。
 当時は備前岡山藩士・滝善三郎の自決の個所が強烈だった。同藩家老の乗った輿が外人居住区を通過した際、フランス人二人がその行列を横切り衝突。砲術隊長の滝は、先方が短銃を持ち出したのを見て、銃撃戦となった。この神戸事件の裁定で、滝は仏、英、伊、蘭、米など内外検証人立会いのもと割腹自決を遂げたのである。この有り様を新渡戸は立会った英国書記官ミットフォードの書から引き出し、滝が左下脇腹に短刀を突き刺して右へゆっくり引き、声一つあげることなく刃を半転させ上体へ掻き揚げる場面を鬼気迫る内容で活写。「武士が恥を免がれ」、「周囲を救う」切腹という儀式と法制度の徳目について触れており、蘭摧玉折の印象が残った。
 本書では後半で「近代日本の最も輝かしい先駆者の一人である吉田松陰が刑死前夜にしたためた歌」として、前述の詠歌が英訳されている。刑死前夜に詠まれた歌は、遺書である「留魂録」の巻頭歌「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」。これが辞世の歌であり、新渡戸に少し誤解がある。しかし「武士道」はクエーカー教徒で米国人妻であるメリー・エルキントンに、妻女としての立居振る舞いを含めた日本人の価値観や倫理観などを知ってもらうためになした著作。史実の詳細において若干の隔たりがあったとしても、作品の真髄や価値には無関係である。英訳は左記枠内のごとくなっている。
 この英訳は、辞世の歌としての肉体的な死、物理的な死を表現しているが、教養ある米国の友人によれば、一九〇〇年頃の表現法であるらしい。いうなれば「いずくんぞ~あらん」といった類の昔流行の表現なのだそうである。

 ところで松陰のこの歌を史実に忠実に、適切に英訳するとなるとどうなるのか?――松陰は下田渡海失敗で自分が死罪(肉体的な死)になることを知っていたのか。そうではなく「島流し」など前科者としての社会的な死(世俗的な死)を覚悟していたのか、によって英訳は異なったものになる。
 そもそも幕府の量刑はどうなっていたのか。体系日本史叢書「法制史」によれば、戦国時代は犯罪人に対し磔、串刺し、鋸挽き、牛裂きなど残酷な刑が執行された、とある。江戸時代となり三代将軍家光は寛永十年(一六三三年)「鎖国令」で日本人の異国渡航を禁止、密航者は死罪と定めた。百十年後の八代将軍吉宗は寛保二年(一七四二年)「公事方御定書」を制定、これが以降の幕府裁判基準となった。しかしこの御定書は寺社奉行、町奉行、勘定奉行らだけに備えられ他見厳禁の秘密法典。何の罪がどんな罰に相当するか公示せず、外部への心理的威嚇戦略をとったのである。
 従って松陰が幕府の量刑基準である「公事方御定書」で、自らの量刑を予測する資料は手元に無かったであろう。しかし「鎖国令」が死罪と定めていることは知っていたであろうし、半端な知識人でなかった松陰は、それが二百年以上も前の法令であり、幕末にそのような事例がないことも又知っていたと予測されるのである。それは五年後の「老中間部詮勝要撃策」露呈時の「高杉晋作宛書簡」(安政六年・一八五九年)でさえ事後、自分の量刑を軽いと予想しており、その一カ月後の「飯田正伯宛書簡」でも自分の刑罰を「遠島」と推測している。以上より下田渡海時には、正確な量刑を予測できなかったものの、たとえ失敗しても幕末のことではあり、死罪になるとは思っていなかったと考察されるのである。
 この考察が正しいとするならば、その英訳は“肉体的、物理的な死”ではなく、“社会的、世俗的な死”となる。ここに結論を得て私はこの詠歌を左上枠内のように英訳した。
「かくすれば……」の「このように」とは、一体「どのように」なのか。個人主義(主語が必要)な言語である英語と、主語が無くとも表現が可能で、多種多彩な意味を包含する簡潔な日本語のエートスとの差異について、知己である米国人Cheiron McMahill氏にしばしば教示を受けた。彼女は米国Washington大学で英語学(BS)を、Georgetown大学で日本語学(MS)を修め、英国Lancaster大学で応用言語学のPhDを取得した言語学研究者(群馬女子大学教授)。彼女は日本人と結婚し、また神道の帰依者でもある。
 この英訳が最善かどうかは分からない。「表現」における西洋と東洋の心の在り方、つまり「持つ人生」と「在る人生」の間の深い渓谷にまで入り込むことで、最適な翻訳が極まるのであろう。

(2008年6月「選択」)

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載10)

屋上緑化で平成の平賀源内に学びます

ヴァッサーハウス

屋上で最先端の園芸を「遊ぶ」
屋上緑化が趣味の防水ジャーナリスト佐藤孝一さんが、あるマンションの緑化セミナーで話していたことです。屋上緑化に興味を示す人は、よくいえば「知的レベルが高い」「環境問題に積極的」悪く言えば「頭でっかち」「やってみる前に情報を収集する」こんな風だったと記憶しています。

緑化だけ考えればどう見ても、地上でなく屋上に緑を置くことは、割高である。それをやろうというのだから、環境に対する意識が高い。だから緑化も無農薬、オーガニック、さらには無肥料化をめざしたりするのは珍しくない。病害虫に対しては天然由来の忌避剤をまず使おうとする。勉強熱心だから、バイオも研究し「ピロール農法」なんて言葉も出てくる。屋上に限らなければ「パーマカルチャー」なんて言葉は常識だと言います。

屋上緑化を経済効果や環境保護の「あるべき論」だけで議論しても始まらない。割高な屋上緑化を選択するのは、詰まるところ「遊び」だから。屋根の上の土いじりで、いろんな実験をして、知的好奇心を満たしながら、おまけに花や野菜が楽しめる。提案する側は、使用者側が持つこの「遊び」感覚をどこかで共有していないと、ただ紋切り型の営業トークで「環境に良い」「トータルでメリットがある」なんて屋上緑化を提案しても差別化はできない、と言う話です。

ピロール農法表紙

私は「ピロール農法」は知らないけど、「確か家にそんな冊子があったはず」と、探してみるとありました。これです。

早速ルーフネット編集部鶴川支局の屋上菜園で試してみようと思い、読み始めて、本当に驚きました。全くの偶然。この冊子の発行者・黒田与作さんの名前の横に、ルーフネットの理解者である紺野大介氏の名が、「顧問」として載っていました。

紺野大介教授のお墨付きを得て、私は安心して「屋上緑化防水」と「屋上菜園におけるピロール農法の実践」の「楽しい関連付け」に取り掛かります。

ほれぼれうんこ・紺野大介
この左ページ下に紺野大介さんの名が。

シアノバクテリア農法改革

清華大学招聘教授 紺野 大介

『選択』連載10

「北陸の発明王」といわれた酒井弥氏にお会いしたことがある。氏は阪大で理学博士となり、カリフォルニア大学など北米へ十年間留学。言葉のハンディを克服しつつ本業、すなわち「科学する心」でも米国人に負けない研鑽を積んで帰国した。長男だったため形の上では家業を引継ぎ「造り酒屋」の経営者となった。しかし活躍の場は自ら酒井理化学研究所の主宰となり篤志家・福岡正氏の後ろ盾も得て、有機化学、高分子などの専門領域で奇想天外な発想のもと、「発明工房」として多数の発明実績を残した人物といえるであろう。
 酒井博士の科学は「面白く、為になり、人類が得をする」がモットー。卵と牛乳で人工象牙、ガラス屑で河川の浄化、非鉄金属鉱滓から電磁波シールド板、腐敗しない人工土壌、過冷却現象を利用した融雪塗料、百円ライターを利用したペン型発煙筒など多数の発明をなした。中でも泡の廃棄処理に困っていた某大手ビール会社から解決を依頼され、ビールの泡を重合して人工べっ甲の作成法を発明。天然物の捕獲不可からべっ甲が取れなくなった環境を一石二鳥で解決し、ビール会社のトップを「平成の平賀源内」と感嘆させたそうである。
 四、五年前に「ピロール農法研究所」によるシアノバクテリア(以下「藍藻」)による基礎をおいた農法の全国大会において、主催者の黒田与作氏の紹介で講演者の酒井氏にお会いした。氏が、藍藻こそ
農業の連作障害を解決できる切り札として、その奥深さ、面白さ、無限の可能性を話されたのはこの間のこと。思えば亡くなる半年前であった。
 門外漢の私がバイオエコロジー系の書籍を読み漁り、友人の官僚から農政・票田・農協の利権がらみの根深い問題も聞き、素人ながら藍藻を観察、光合成を確認し、藍藻用資材の製作現場を見、農地へ立ったのはそれからのことである。無論そんなことだけで農法の千分の一、万分の一も分かりやしない。しかし氏の生きる姿勢に惹かれたことも一つの衝動となった。氏の長男は米国で一級の国際弁護士となっているけれど、「造り酒屋」の後継がない。このため故人の遺言で約千五百坪もの老舗酒屋を自費で処分・更地化し、今立町(現越前市)へ寄附したそうである。公僕である筈の代議士の家屋敷の垣根が高くなる一方の世の中で、このような人物が衆参議員の大半を占めるようになれば国会も凛然となるであろう。

『選択』連載10

「藍藻」は地球創生後の今から三十二億年前、南アフリカの地層から生物の世界最古の化石として発見された。酒井氏によれば藍藻は単細胞植物で、バクテリアと共に原核生物で、クロレラのような真核生物と区別される。藍藻は光合成により二酸化炭素から酸素を発生、放出する。核を持たないことから藍藻を細菌として扱い「シアノバクテリア」と呼ぶことが多い。また細菌の中には光合成を行うものもあるが、酸素は放出しない。この点で細菌とも異なる。しかも、増殖は常に無性的に行なわれる。藍藻は世界中至る所に分布し、温度に関係なく、湿っていれば海水中でも淡水でも、空中に露出した場所でも、熱い温泉の中でも生育する。米国イエローストーンのマンモス・ホットスプリングの周辺が着色しているのは藍藻のためである。土壌中でも、石灰中でも繁殖する。また空気中では窒素を固定する能力がある。
 藍藻は土壌中にCO2を出す現行の有機肥料と異なり、CO2を使って大気中や土壌中にCO2を放出する。酸素は人間や他の動物にとっても必定。自然界の平衡状態を維持する重要な役割を果たしており、CO2が地球温暖化の原因だとすると、一段と理解できる。藍藻は田畑の肥沃化には必須のものであり、氏とピ農研との三十年以上の地道な研究成果に裏付けられているように、無農薬による土壌復活、それに基づく顕著な高栄養価作物との相互作用がかなり検証されている。「藍藻」のこの不思議な働きに最初に注目したのは福井県農業試験場の寺島農学博士。最適肥料の研究途上、紅色細菌に酸素発生に必要なマンガン錯体がついた光化学反応を発見した。その後酒井博士に基盤的なメカニズム研究が委ねられた。

 ドイツの名門ベルリン・フンボルト大学の友人T.Börner(バーナー)教授らに生命科学研究所で会い藍藻について意見を聞いた。旧東ベルリン市街地にある。教授は二十年以上シアノバクテリア研究をしており、千五百種類もあるシアノバクテリアのデータベースを構築中。医薬の本質を変えるべく藍藻による創薬業事業を目指している。藍藻が在る所に生物が存在、転じて人類が生存できるという根源の認識。多種多様のシアノバクテリアの性質を分析し、人体に効能効果が認められる約八百種類について抽出。各種実験室で動的攪拌、温湿度耐久試験、異性種による相互作用などを通してシアノバクテリアの本質に関する基礎研究と応用研究を実施している。そして大学発ベンチャーを作り、従来の人工的なケミカルコンパウンドに代わる生理活性物質を中心に天然創薬の商品開発を急いでいた。教授らは日本が世界に先駆け三十年以上前から藍藻の知見を蓄積している事実に驚き、敬意を示し、農法改革の考え方に眼を見張ったものである。

 現在の我国の農地は農薬や酸性雨等で汚染が極度に進行し、藍藻が簡単には増えない土壌となった。しかし終戦までは藍藻が潤沢。藍藻リッチの土壌の作物は米から野菜、果物に至るまで骨力を高めるデータがあり「骨が豊かな人の力」を「體力」(たいりょく)と書いた。今の「体力」ではない。第二次世界大戦時、日本の兵隊は三十㎏の背嚢を背負って二十㎞も歩き米兵を驚かせたという記述が米国にある。米国は日本兵の強靭さの原因が食事(特に米と魚)にあると推断。日本の五百カ所の土を本国に持ち帰り、化学分析の結果その主因が「当時の土壌」に依っていることにを突き止めたのである。戦争終結に原爆投下までした戦略国家・米国は、日本の戦後処理の一環として、優秀な日本人を弱体化させる第一の方途は土壌汚染(農薬をばら撒かせること)、第二に海岸縁に四大工業地帯を作らせ海洋汚染(魚を汚染させること)―――と結論付けたとの説もある。また現実そうなってもいるのである。付言すれば今また農政当局が〝日本農業の不振?〟を理由に「農産物の関税など国境措置撤廃」という食糧外国依存への傾斜を強めている。国民の食糧自給ができずに国家の安全保障は可能なのか?他国が食糧等危機時に一体誰が日本に兵糧を送ってくれるのか?―――電力、ガソリンを手足に譬えるなら食糧は国家の心臓である。

『選択』連載10

 日本は清浄だった土壌・大地を復活させるのに藍藻はこれ以上無いといわれるほど諸条件を備えている。ピロール環が四つ集まると「テトラピロール」という有機物になるが、その資材となるべき排泄物は山とある。また生石灰は日本中何処でも取れる無尽蔵の資源である。これに藍藻を関与させることで還元作用によりクロロフィルとなり植物形成循環を獲得できる。各種農法が多数存在していることは承知しているつもりだが、どれだけ根幹的、救国的となっているであろうか。浅学の私には分からないが、地球規模で考え地域で行動する議論が必要である。一方他策がなければ、ダイオキシン被害、温暖化防止等の強い可能性まで秘めた起死回生に近い藍藻農法に期待し、日本から海外へも発信を―――と愚感、愚考している。
(2007年11月「選択」)

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載33)

画像の説明
特に意味は無いのですが、首相官邸です。

必ずしもトップやリーダーに対して、常に正しい判断や高い能力を求めるものでは有りません。でも、逃げないで欲しいと同時に、「志」を持ってて欲しいと思います。なぜか思い浮かぶこの人たちの顔。

橋本左内
橋本左内

吉田松陰
吉田松陰

今回は、この話です。

ロンドン大学のサムライ講義

清華大学招聘教授 紺野 大介

画像の説明

幕末の先覚者、佐久間象山が門弟・吉田松陰の黒船密航事件に連座して投獄され、その後九年間・松代藩(長野県)で謹慎生活を送ったのはよく知られている。 しかしこのときの想いをしたためた「省愆録(せいけんろく)」は存外、世に知られていない。象山四十五歳頃の著作。我国が日米和親条約、日英和親条約と次 々と締結していった将軍家定の時である。

 浅学の筆者はこの「愆」の字が読めなかった。「字通」「字統」を孫引きしやっと意味が分ったのである。それによれば「愆(けん)」の声符(中国語の字音 を標記する符号)である「衍(えん)」は「行路上に水が溢れる形で不都合なことを意味する」。この下に意符の「心」をつけ、「過ち」「仕損じ」「了見違い」といった意味になるとのこと。李白の詩「功成りて、身退かざるは、古より愆尤多し」(愆尤(けんゆう)=咎め)でも推察できる。従って「省愆録」とは、自信家の象山にとって「仕損じを内省するの記」といった処なのであろう。

「省愆録」の第十章第四節は“外国語の必要”という個所。「夷俗を馭(ぎょ)するは先ず夷情を知るに如くはなし。夷情を知るは先ず夷語に通ずるに如くはなし。故に夷語に通ずるは――」と語り、自ら外国語辞典を作り、外国語の重要性を力説した。言語力は文化力、文化力が国力であることを喝破していたので あろう。この深い理解や教育が本物にならず今日に及んだという見方もある。初代文部大臣の森有礼は何と「英語の国語化」を提唱した。更に小説の神様・志賀 直哉までも「戦争に負けたのは日本語のせいであり、公用語をフランス語にすべき!」と。――文化は上流から下流に流れる。「日本人を舐めるなョ」といった ところで、英語で表現しない限り伝わらないのが国力というもの。「省愆録」はともかく、“大義”とか“もののあわれ”といった英語にない美しい日 本語と格闘しながら、もっといえば英語より難しい徳川後期の日本語と格闘しながら、愚直に橋本左内の著作「啓発録」と取り組んだ。吉田松陰の「留魂録」英 完訳よりずっと以前のこと。早速、相手国の素晴らしいエートスを学ぶ事には貪欲な英国から講演依頼があった。一九九六年秋のことである。

画像の説明

 ロンドン大学はロンドンの中心地ブルームズベリーにある。英国最大の大学であり、大英博物館の北に位置する大学本部のSOAS(東洋アフリカ研究学院) で「On Sanai Hashimoto」と題して行われた。出席者は文学部長や教授、大学院生など約七十名ほど。ドナルド・キーン米国コロンビア大学名誉教授の弟子である ガーストル(D.Gerstle)教授、津和野藩の思想家「大国隆正の天主教観」の研究でケンブリッジ大学から文学博士号を取得したブリーン (J.Breen)助教授等も聴講した。ガーストル教授によればブリーン助教授は、英国に於ける「日本の幕末研究の第一人者」とのこと。仄聞にして知らな かったけれど、求道者の端くれのつもりで聞いて戴くことにした。

 幕末維新は日本史上、歴史の沸騰点と呼べるほど光の夥しい傑物が出現した時代である。彼等はそれを知悉していた。途上、大村益次郎、大鳥圭介、福沢諭吉 など錚々たる人物を輩出した当時の私塾にも言及。「適塾」創始者・緒方洪庵が、居並ぶ英傑の中でも、橋本左内を「他日わが塾名を掲げん池中の蛤龍(こうろう)」と評し、別格の扱いをした事など話した。蛤龍とは、池に潜んでやがては龍となる機会をじっと待っている大物――という意味である。

 一例だが、勝海舟の「この世に怖い者を二人見た」という有名なセリフがあるが、「一人は西郷隆盛、一人が横井小楠」であることを会場の英国人が知ってい た事には驚ろいたものである。一体、現代の我国でこれを知っている国民がどのくらい居られるであろうか?「学」の深さに敬服しつつ、その西郷隆盛は「吾の 才学器識、逆立ちしても勝てない男が二人いる」と。それは誰か?聞いた。この質問には流石に回答なく、日本人として安堵の胸を撫で下ろしたものである。も し「一人は藤田東湖、一人は橋本左内」まで正解されたなら、乱暴な言い方をすれば、もはや国体の瓦解と言われても仕方がないほど。

 ロンドン大学聴講者達の幕末理解が深いので、途中をかなりスキップ。安政の大獄において、志士達が小塚原で斬刑に処される個所に及んだのである。今月十 月は左内、松陰とも没後百五十年の命日月。将軍家の試刀役で、左内や松陰など幕末の志士達の死刑執行をつとめた第七代・山田浅右衛門による介錯時の振舞に 触れた。「日本近世行刑史稿・上下巻」か何かで読んだのだが、斬刑直前の極限状態になると、人間は血圧や脈拍数など許容限界を超え、“眼が飛び出る” の形容があるように、医学的には体内の伝達物質であるアドレナリンが大量に出る。男性の場合、生殖器周辺が最も反応するようで、陰嚢(Scrotum)の 中にある精巣=睾丸(Testis)は海綿体球筋などの極度の萎縮で、周辺の筋肉が精巣を押し上げ、腹腔と呼ばれる体内に入ってしまう。これはストレス性の円形脱毛症のような無意識の反応と異なり、意識した反応。武士の死生観にはほど遠い「箱根の雲助」もどき犯罪人の多くが、精巣が体内に入る。これに対 し、天下国家を憂い、改革を志す左内や松陰のようなサムライは、二十代でも人間の器が桁違いなためか、精巣は自然状態の陰嚢にしっかり納まったまま端座し、一刃のもとに介錯された様子である。

 専門外の領域の上、個所が個所だけに英語の語彙を択んで話すのに大汗をかいた。介錯時の話は場内に緊張感が漂い、青眼のアングロサクソンは息を止めたよ うに瞬きもせず聞き入っている。拙い医学英語が通じているか、一度だけ聴衆に向かって聞いた。彼等は口が渇くのか首を深く「肯(がえん)じる」ことでやっと応えたのが 印象的であった。

画像の説明

 講演終了後、日本人の倫理観、価値観について意見があった。会場には目頭を熱くした人、ハンカチを取り出す女性もおり、サムライの生き様や美意識に憧憬 と敬意のようなものが漂っている。質問が二つあった。「三島由紀夫の自決時はどうだったか?」及び「左内が日本最初の首相になっていたならば御国はもっと 違った国家になったのではないか?」
 このような難しい質問に回答できる素養はない。ただ「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」というけれど、西洋では、行き詰まる度に十三~十五世紀のル ネッサンス期と十八世紀の啓蒙期の「学」に戻り、それを触媒として再出発をして来た様に思える。それに対し我国の歴史の「学」の浅さは如何ともしがたく、 縄文・弥生は程々に、せめて黒船開国期の思念と、大戦敗北期の「二つの学」はもっと深く深く研鑽し、大きな財産として後代に残すべきと愚感している。
(2009年10月「選択」)

あるコスモポリタンの憂国(『選択』連載28)

紺野大介 「選択」セレクション 最終回

紺野大介清華教授の『選択』セレクションは、今回で一段落です。紺野さんの雑誌「選択」への連載第1回目は、幕末の英傑・橋本左内で始まりました。ルーフネットへの転載最終回は、やはり左内で締めくくりたい。教育の場とは「生徒の心に火を点ける」所である。紺野さんは、小学生への特別授業を行った際、橋本左内言行録を元に、子ども達に左内の少年期の振る舞いや左内15歳時の著作「啓発録」の要点を伝えました。
ルーフネット編集長と紺野さんとの出会いは本サイト、トップページメニュー「紺野大介の音楽随想」第1回目に書きました。エンジニアにして創業支援推進機構理事長の紺野さんが四半世紀前に書いた音楽随想が、今読み返しても新鮮である理由は、この『選択』の連載記事が古くならない訳と同じです。戦争や大地震の前後でも価値が変わらないものは変わりません。
紺野さんの書いたものは単なる技術的知見、経験の切り売りではなく、その行動の原動力となった「志」。橋本佐内の「啓発録」を、続いて吉田松陰の「留魂録」を英訳し、世界に発信し、海外で講演するのは、世界が驚嘆したかつての日本人の人格と心を、現代の日本人に伝えるためだと思います。

ですから、そのレベルは足元にも及ばないものの、「志」を次世代に伝えることを目的とするルーフネットは、雑誌「選択」編集部に紺野さんの記事の転載をお願いしました。
記事の中から、ルーフネット読者に是非読んで欲しい記事を選び転載してきました。

もう一度
紺野大介(こんのだいすけ)氏略歴
1945年(昭和20年)2月20日満州奉天市生まれ。65歳。東京大学大学院工学系研究科修了、工学博士。1994年以来中国北京の清華大学に教授とし て招聘され現在に至る。同国立トライボロジー研究所終身教授。特定非営利活動法人創業支援推進機構理事長。日中科学技術交流協会常務理事。2000年まで セイコー電子工業(株)取締役事業開発本部長を務め、関連会社、関連子会社の会社管掌役員等兼任で歴任。この間、通産省工技院マンガン大プロジェクト作業 部会長、日本工業規格改定委員会日本機械学会代表、(財)新世代研究所評議員など歴任。'00年7月に創業支援推進機構をNPO法人として立ち上げ(略称 ETT)理事長に就任。

【専門分野】流体力学、流体工学、流体機械、流体精密機械、トライボロジー。

【最近の研究】狭義には、民間力による日本の国際競争力の蘇生。広義には、日本人の民度改革の推進。

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紺野さんのもう一つの顔
幕末の英傑、橋本左内15歳の著作「啓発録」(写真左)、同じく吉田松陰、処刑前夜の著作「留魂録」(写真右)を英完訳し世界に紹介。

熱海・多賀小学校の光風とシグマ線図

清華大学招聘教授 紺野 大介

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「橋本左内を知っていますか?」。熱海の市立多賀小学校だよりA3判「橙の里」にこのタイトルがプリントされ、ポスターとなって町に貼られたのは昨年暮だそうである。農地を子供達に開放している酵素風呂の妙楽湯店主・山本進氏。水稲(水田で栽培する稲)、陸稲(畑で栽培される稲)など田植えや刈取りで農業を体験させつつ、自身は禅僧・村上光照老師に感得を受け、和尚の四国高松行脚時に知己となった篤志家・満岡重一氏の情報から「やさしい啓発録」の資料を取り寄せ、農作業に子供達を引率してきた小学校教諭に手渡したのが事の発端。
 幕末の英傑・橋本左内については連載1「日本人の民度革命」で既述した。この左内十五歳時の著作「啓発録」の“稚心を去る”“気を振う”“志を立てる” “学に勉とむ”“交友を択ぶ”を山田学年主任が読み聞かせ、子供達も諳んじているとのこと。気を読み取った店主は母校、多賀小学校・西島幹人校長と掛け合い、その結果、初体験であるが小学生むけ講義の運びとなったのである。折しも橋本左内没後百五十年。小学五年、六年生計二百名に校長以下約四十名の教職員他が参加された。
 今の十一、二歳の子供達がどんな価値観で何を考えているのか?――導入の方法を模索した。左内は昨年のNHK大河ドラマ「篤姫」と全く同時代。見るに堪 えるテレビは少ない。海外も多く不連続だったけれど、子供達に聞いた。「昨年の大河ドラマ“篤姫”を見た人、手を挙げて?」。二百名の子供達で手を挙げた のは僅かに八名。テレビ視聴率の不確かさは有名であるけれど、この挙手数にも驚いたものである。

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 教育場とは「生徒の心に火を点ける」所である。如何に個々の子供達に適した火を点けられるか?――昭和七年発刊の橋本左内言行録を中心に左内の少年期の 振る舞いや「啓発録」の要点に触れた。「啓発録」はつまるところ“人格のあるべき姿”を世界に例のない弱冠十五歳でほぼ完璧に述べた著作といえよう。成績で人格が決まる訳はなく、人格で人間が決まるのである。これを嚙み砕き「人間としてのぶ厚さ、深さ、弾力さ、品性など」の人格の高さ、大きさを要約した Σ[シグマ]線図(左頁)について説明した。十年程前から企業幹部研修会や大学で話し、簡明で印象的との声が多いため試行したのである。
 私的な概念であるが、人格は「天性」、「知性」、「技能」、「習性」の四線分で囲まれた面積で表現できるであろう。第一に重要なのは人間の本質たる天性。心の明るさ、情操、人を人として愛する等の徳性・徳義たる「天性」は実は他力、自我が目覚める三歳位までに特に母親から授かることが、米国ミシガン大 学など幼児心理学の研究で明らかとなっている。天性のみ自力に依存しないのである。良い母親に恵まれた子供の天性は横軸に伸びる(図①)。赤子に母乳を与える際、全身で慈しみ乳を与え、満腹し浅眠から熟睡に到る過程で子守唄や絵本を読んで聞かす母親は多い。しかし母乳を与えつつも芸能テレビを見ている母親もいる。胸の形が悪くなるとし哺乳瓶を銜えさせる母親、車に放置しパチンコに興ずる母親もいる。こうした母親の姿に依存し「天性」は変化する。DNAに無関係に、食事も満足に与えない母親から心の明るさ、清らかさなど備わる筈はなく、極端な場合「天性」が負となり、シグマ面積で合計がマイナス(図②)になれ ば、所謂、人格欠損となる。
 次の「知性」は頭脳的な判断力や思考力。これがあるから人間は動物より抜きん出ている。しかし少々未発達でも人間の本質たる人格にはそれほど影響しない。何処の大学を出たからといってそれ程問題でない。「技能」も同様。サッカーが上手い、ピアノが上手、英会話が流暢――といった「技能」は無いより有っ た方が良い。しかしDNA依存性があるといわれる「知性」や「技能」は、Σの線分の高さ方向にある角度(θ)を以って関与し、「天性」、「習性」ほどには 人格に効かない。一例だがスポーツ選手で時々間違いを起こす人がいる。先日もオリンピックで金メダルを多数取得した米国水泳選手が大麻を吸い問題を起こし た。「技能」は金メダル。Σの技能線は著しく長いけれど、脳ミソまで筋肉となったような人格は(図③)の如くなるであろう。無論「習性」でリカバリーでき る。

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 以上より自力で人格を高めるには「習性」が最も大事である。習性とは毎日の習慣で作られていく感性や行動様式であり、人格を大きく決定づける。少し乱暴 な例を挙げてみる。「啓発録」の“去稚心”ではないが、子供ならいざ知らず、大人になっても通勤電車等で毎日漫画を見ている人、毎日が週刊誌の人、毎日が総合・経済新聞の人、毎日が英字新聞の人、毎日が密度濃い書物を読まないと日々充実・律動しない人もいる。漫画を読んで無論悪い訳でない。しかし毎日が漫画レベルで事足りる生活だろう。「啓発録」の“立志”とは程遠い日々となる。ニュートンも朱鎔基も幼少期に母と離別・死別しているので「天性」が幾分短い ようであるが、持ち前の「知性」の上に「習性」を日々蓄積し偉人となったのであろう(図④)。「人格」のように本当に大事なものは目に見えない――といっ た内容を咀嚼したつもりでいる。限界五十分が八十分。子供達は集中して聞いてくれたようであった。

 質問があった。「橋本左内ほどの偉人でなくても立派な大人がいるのにイラクなど何故戦争が起きるのですか?」。大人の世界の不条理を突いた炯眼な生徒。 鋭い問いで答に窮しつつ三種類の“真面目さ”に触れた。世の中には「生まじめ」「非まじめ」「不まじめ」の三種類の人間がいる。道路交差点の例で話し、赤 は止まり青で渡るルール。「生まじめ」とは夜など車がなくても赤で渡らない人。「不まじめ」とは交通が激しいのに信号を無視し渡る人。しかし「非まじめ」とは交通規則は基本的に順守する。それでも夜中など車がなければ赤でも渡る。何故なら車がある前提でルールや信号があるのだ。ただしそこに低学年の子を連 れた親が信号の意味を教えている場合、譬え車がなくても赤では渡らない。これが盲導犬やロボットではマネのできない人間が五感で自在に考える高い次元の 「非まじめ」の概念。戦争は「生まじめ」同士や「不まじめ」がぶつかり合うから。「非まじめ」な人が地球上で多くなれば戦争は起きなくなるでしょう―― と。「非まじめ」度も結局「人格」の“面積”に比例するのであろう。言葉が通じたか?不安があった。しかし優れた生徒は得心したようであり、太陽のように 輝く子供達の瞳を見ながら大きな元気を戴いたものである。

2009.05 選択

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