「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

「銅板屋根とともに」

「銅板屋根とともに」

銅板屋根工事の生き字引、斉木益栄さんのお話が始まります

斉木益栄さん

雪割大根
雪割り大根2013.1撮影。写真は記事とは関係ありません。

※ ※ ※

昭和の初め、神社仏閣や公共建築を除くと、都市圏の一般住宅の屋根は瓦、山村では茅葺き、板葺き屋根の家が一般的でした。今回登場する斉木益栄さんは、昭和7年、新潟県の十日町から3里ほどの山村で木羽(こば)葺きの職人の家に生まれました。昭和23年に尋常小学校高等科を2年で終えて親方に弟子入り、ルーファーとしての歩みを始めます。

日本では昭和27~8年ごろ、トタンが市場に出回わってきました。木羽と比べてトタン葺きの作業効率は5倍以上。さらに木羽に割れるような良い木も減ってきたので、屋根は急激にトタンに変わっていきました。

そんな時期に出稼ぎで上京、板金の仕事を覚えてゆきます。屋根を葺くという作業を知りつくした斉木さんは、長年にわたり(株) 小野エ業所の技術部門の責任者をつとめてきただけでなく、日本銅センターや日本建築学会において銅板屋根に関するマニュアルや仕様書の作成も担当してきました。小野工業所は多くの板金技能士を育成し、また同社が最も得意とする社寺建築の新築屋根をはじめとし、歴史的重要建築物の史実に基づいた屋根修復、改修エ事にも数多く携わってきました。

その斉木さんに、社団法人日本金属屋根協会の大江源一編集委員長は、銅板屋根をめぐって印象に残る建築物や出来事についてインタビューしました。その話は機関誌「施工と管理」に掲載されました。これから6回にわたって転載します。

2013/02/02(土) 09:10:32|屋根|

銅板屋根とともに(上) その①

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(右の画像はクリックすると拡大します)

今回お話をお聞きする斉木さんは、長年にわたり(株) 小野エ業所の技術部門の責任者をつとめてきただけでなく、日本銅センターや日本建築学会において銅板屋根に関するマニュアルや仕様書の作成も担当されてきました。その斉木さんに銅板屋根をめぐって印象に残る建築物や出来事についてお話をうかがいました。

最後の世代 

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私は新潟の川西町、ここは十日町から3 里ほど山の中に入った所で昭和7 年に生まれました。もともとは木羽(こば)葺きの職人です。昭和23 年に尋常小学校高等科を2 年で終えて親方に弟子入りしました。学制の切り替え時期で、高等科に3 年行っていれば中学校卒業ということになったんですが、弟子入りが決まっていたので2 年で卒業してしまいました。実は、私の父と師匠は支那事変の戦地で戦友でした。お互いに元気で復員したら俺のせがれを弟子にしてくれという話し合いがあったそうです。それで私の職業が決まりました。その頃は、こんなことで人の職業がきまっていたのです。

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木羽の職人は私らの年代が最後だと思います。また、本当の丁稚奉公をしたのも我々まででしょうね。弟子人りして3 年間は、お盆と正月に小遣いをもらうだけで、あとはタダ。親方の家には女の子もいたのですが、何故か雑巾掛けはさせられるし… そういう生活でした。

年季を終えるとお礼奉公が1 年間。また、タダで働きます。都合4 年が修業期間でした。5 年目になると他の親方 のところへ修業に行きます。まあ、一人前になるには5 年掛かりましたね。うちの親方の本業は木羽なんですが、トタンの仕事もやっていました。ちょうど仕事が変わり行く時代でしたね。

木羽葺きは柿(こけら)葺きのような高級な仕事ではなく、板葺きのような感じでした。2 寸5 分から3 寸の葺き足で重ねていくやり方です。材料の板は木材を尺2 寸の長さに切って、これを手で割って作ります。手割りですから板の厚さも1 分はありました。手割りの作業は、山の中に小屋掛の作業場を作り、そこに泊り込んだ事もありました。出来上がった製品だけ山から持ってくるやり方です。今じゃ考えられないような生活でしたね。

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木羽葺きの屋根といっても、厚さが1 分程度ある尺2 寸の板で2 寸5 分しか外に出ないようにしているので、5枚重ねになります。ですから長持ちするんですよ。だいたい25 年から30 年は持ちますね。昔の家は薪を使って天井裏に煙が回るようにしていましたから、なお更ですね。

屋根を全部木羽で葺くやり方と屋根の周囲だけを木羽で釘止め葺き… 銅板の腰葺きと同じです… それ以外は石載せという葺き方をする場合がありました。これは板の上にタルキを置いて石を載せただけのものです。柏崎など海辺のほうで多かった葺き方です。この石載せの屋根では2 年に1 度木羽返しといって、板を全部ひっくり返して、外に出ていた部分を中に入れるという作業をします。

木羽からトタンへ

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昭和27 年から28 年ごろから急にトタンが出てきました。急激にトタンに変わっていったという感じです。当時のトタン葺きでは普通の民家の屋根を2 人の職人で10 日もあれば終えることができましたが、木羽ですと職人2 人でだいたい1 ヵ月半から2 ヵ月掛かります。この辺の理由が一番大きかったと思います。だんだん人間が忙しくなってきましたし、木羽に割れるような良い木を探すのも難しくなっていましたね。

初めて東京に出てきたのが昭和27 年です。冬働き(冬季の出稼ぎ)でした。この時はトタンをやっている業者を知らなかったので材木屋さんに二冬お世話になりました。

この材木屋さんは本郷の新花町(現在の湯島2 丁目)にあったのですが、その隣がたまたま板金屋さん。その板金屋さんに「あんた、(板金の仕事をしてたんなら)もったいないよ」と言われたんです。これが始まりです。でも、隣に行くわけにいかないから(笑)、あくる年の冬に(東京)調布の国領にある板金屋さんに出てきました。

この板金屋さんは屋根葺きは一切やっていませんでした。鬼専門です。私なんかは樋を掛けるとかそんな仕事が中心でしたが、たまに鬼を叩かせてもらえる。亜鉛めっき板の鬼ですから、私なんかが叩くとめっきが剥がれるんですよ。親方が叩くと全然剥がれない。不思議でしたね。亜鉛めっき鋼板といっても今のような冷間圧延じゃない。ホット材ですから、なお剥がれやすいのに親方が叩くと剥がれませんでしたね。

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

2013/02/03(日)00:44:24|屋根|

(つづく)

ササ刃やマトモで、道路に並べた長モノを切る

「銅板屋根とともに」好評連載、第2回目です。

画像の説明
日銀大阪支店の美しいドームと銅瓦。(写真は記事と直接関係はありません)

※ ※ ※

どんな仕事にも専門用語や隠語はあるものですが、建築、中でも屋根については部位や、構造、作業にかかわる符丁は多いです。斉木さんの話、今回は鋏に触れています。「ササバ」はともかく「まとも」といういい方には少し驚きました。

鋏にこだわるのは何と言っても美容士でしょうが、彼らが使うのは一丁十万、二十万円というのは珍しくないらしい。刃のカーブによって、ササ刃、ヤナギ刃を、乾いた髪、濡れた髪で使い分けます。髪が切られまいと刃の上を逃げて行き、それを適切な速度で追いかけて切る。髪を傷めずに切るのは道具と腕だそうです。

板金鋏は、堅い金属を相手にしながらも、繊細な作業が要求され、鋏の種類はとても多く、日本金属屋根協会のホームページにも㈱盛光の田村和義社長による特集記事「点で切る」~鋏を学ぶ」で詳しい解説があります。

さまざまな板材を、複雑な曲線で切り出し、えぐり取る板金鋏。長物の切断時に使われる直刃 (チョクバ) 直線切り専用の鋏を「まとも」と呼ぶのはちょっと笑えますね。

銅板屋根とともに(上) その②

入社試験は煙突

小野に来たのが昭和30 年。調布の板金屋さんを飛び出して、(台東区)鳥越の叔母の所でフラフラしていたら、新潟の地元紙である新潟日報に出た小野板金の求人広告を田舎から送ってもらったのがきっかけです。 面接したのが亡くなられた菊谷専務。専務に「長男だから冬働きしかできない」と言ったら、「冬はどこでも仕事がない。暇なのは新潟だけじゃない」ということで、12 月だけ働かしてもらうという条件で入りました。最初に煙突を作らされました… 今思うと入社試験です。当時のうちの会社の煙突は、板をただ切って曲りや主目は鋲でかしめただけのものでした。

私は調布で町場の経験がありましたから、ちゃんと型を出してえぐったり、落とした屑で吊子を作り主目や曲がりは全てはぜ組みをしました。そしたら初代の社長( 以下: 留吉社長) が「お前どこで習ったんだ」と聞かれました。「田舎です」と返答したら、「田舎でこんなことするわけがない」って。分かるんですね( 笑)。その時に「うちは、こんな丁寧な仕事はしなくていいんだぞ」とはっきり言われました。野丁場の仕事は能率だということです。

なるほど周りを見ると町場の感覚からすると、もったいないようなトタン板が屑箱の中にいっばい捨ててある。最初の驚きでしたね。

長尺鉄板を知る

その翌日から仕事、それも徹夜仕事でした。銀座にある三愛ビルの屋根の葺き替えです。私はこの時初めて長尺鉄板というものを知りました。それまでは3×6 の板しか知りませんでした。当時は私どもの市川工場もありませんでしたから、長尺の加工はここ(本社)の前の道路に広げてやっていました。道路に鉄板を並べて墨をうって、薄物用穂長ササ刃… 直刃の長いもの…で切っていく、といった作業です。ササ刃で切れるのは30 番(0.3mm ) までで、28 番(0.4mm) になると切れない。ササ刃と“ まとも” の中間の鋏があって、それで切っていたと思います。

小野エ業所本社前の路上での成型作業

入社したときの日当が私の場合420 円、“世話役”は470 円でした。1 ヵ月後に10 円上げてもらいました。当時の10 円は大変な金額でした。職人さんは5 円の違いで行き先を変えるような時代でしたからね。この頃の小野は社長を含めて社員が7 名、職人さんが27 人ぐらい、外注には知らない人がたくさんいました(笑)。

この時は12 月一杯という約束でしたが、結局3 月まで仕事をして4 月に新潟に帰りました。その秋にまた上京して仕事をさせてもらいました。その2 ヵ月後くらいに“世話役”をやれと言われた。若いのに700 ㎡もあった屋根工事の“世話役”になったもんだから、うちの古い連中からは「あいつは、なんだ」となりました(笑)。

会社も職人を使うと「うるさくて、しょうがないだろう」(笑)と分かっていたのか、見習い生をつけてくれました。当時はうちには見習い生として1 年生が5 人、2 年生が3 人、3年生が2 人ぐらいいました。

その見習い生を使って仕事をしました。彼らは良く働くんですよ。ちょっとした仕事を教えても、とても喜んでくれましたしね。

人様には言えない

この仕事で請負金額の半分ぐらい儲かった… そんなこともあってか、小野での仕事が面自くなって、結局田舎には帰らなくなりました。当時の小野は国鉄の仕事を結構やっていましたから、連日徹夜仕事なんて日々も多かったですね。

若い頃は、人様には言えないような経験もしました。ある現場のことですが、番頭さんが屋根の寸法を間違えてしまった。屋根に載せてみたら30cm 短い。監督さんは「すぐ取り替えろ」と言うし、菊谷専務に電話したら「お前の裁量で何とかしろ」と言う。無茶苦茶ですよ(笑)。三晃(金属工業)さんなどは当時でも機械で加工していましたが、うちは手折りでしたから、そもそも簡単には材料は手当てできません。

「何とかしろ」と言った専務も現場まで来て大工の棟梁と相談を始めた…で、軒先を20cm 詰めちゃった(笑)。大工さんに軒先を切り落としてもらって棟板を大きくして、夜中に屋根を葺いてしまった。翌朝、監督が来て「どうしたんだ?」と聞くから、「いや一、取り替えて葺きました」(笑)。監督も分かっていたと思いますよ。

銅板屋根は大震災以降

銅屋根の歴史は長いようでも、いろいろな建物に使われるようになったのは、それほど古いことではありません。大正時代まではほとんど一般では使われていません。せいぜいお金持ちの家や官公庁ぐらいですね。一般に普及したのは関東で言えば、大震災以降です。

大正末から昭和の初めにかけて銅板の仕事が急速に広まった。このため、銅金さん、浅草にあった銅助さん、留吉社長の銅辰といった銅を看板とした業者が出てきたように思います。ただ、この頃は、大物にはほとんど使われていなくて、戸袋やパラペットに化粧で張る仕事… 後に看板建築と言われる様式… ですから、はぜが細かかった。この流れで屋根葺いたから、はぜが細くてあとで色々と問題が出たということでしょうね。

銅板は昭和8 年から統制品になって一般には使えなくなりましたから、戦前の銅の時代は非常に短期間であったと思います。この統制は昭和24 年まで続きました。ですから昭和8 年から24 年の間は、銅の仕事はほとんどありません。それ以降もポツポツといった時代が続き、小野でも私が入社した昭和30 年頃は年に一つ、二つという状態でした。

私も職人として経験した銅屋根の仕事は、箱根にあったある会社の寮、某新聞社の社長さんの自宅、渋谷東宝の屋根ぐらいですね。渋谷東宝の屋根では、銅板の長尺を初めて使いました。0.3mmでした。当時は加工する機械もありませんでしたから、屋根の上に銅板を並べて26 番の亜鉛鉄板で“手バッタ”のようなものを作り、折っていきました。私は銅屋根についてけっこう生意気なことを言っていますが、自分で叩いた経験というのは、この程度です。

  • 斉木益栄氏、主な担当経歴

    銅板屋根とともに①_ページ_4m
    (画像をクリックすると拡大します。)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/02/10(日) 00:44:24|屋根|

私が鮟鱇を作ったら、格好が悪いからと踏み潰されました。

え?アンコウを作る!踏みつぶす?
銅板屋根とともに(上) 連載3回目

日銀大阪支店 鮟鱇あんこう
日本銀行大阪支店の雨樋。 

アンコウを踏みつぶしたら随分気持ち悪かろう、と思うのだが、135号の読み物はそんなはなしから始まります。斉木さんが入社早々に作ったアンコウを、「こんなもの売り物になるか」と言って社長が踏みつぶしてしまいます。

本物のアンコウなら、ちょっと大変なことになってしまいますが、このアンコウは銅板で作ったアンコウです。といってもアンコウの形をしているわけではありません
軒樋の雨水を竪樋に導くための連結部分を呼び樋(よびどい)、通称・鮟鱇(あんこう)と呼びます。軒樋からの水を受けるために大きな口を開けています。その形から「あんこう」と言うそうです。

築地本願寺の樋
築地本願寺の鮟鱇。

茅葺き・コケラ葺き・瓦葺きの大規模建築物に樋を付ける場合、そのデザイン処理は大変難しい。ほとんどが文字通り「とってつけた」様に美しい屋根となじまないものです。一方近代建築の銅板屋根と雨樋は同じ材料だけに良く馴染み、デザイナーが遊べる部位でもあります。

銅板屋根とともに(上) その③

乱高下が激しかった銅価

築地本願寺

小野として銅の仕事をよくやるようになったのは、昭和40 年前後からです。「うちの社長には銅板の技術があるのだから、それを仕事にしようじゃないか」という考えで、会社の方針を銅のほうへ持っていったようです。留吉社長は築地本願寺のドームの銅屋根など、銅板工事の経験も当時としては多いほうでしたし、我々社員にも色々な技術を見せてくれました。私が銅板の鮟鱇を作ったら、あまりに格好が悪いと踏み潰されました。「こんなもの売り物になるか」… そういう人でしたね。

桃華楽堂

会社の方針を変えたこともあって銅の仕事は増えてきたのですが、実際にはなかなか手が出せませんでした。当時の銅は値段が安定していないので、資金繰りが立たないというのが大きな理由です。例えば、皇居にある桃華楽堂の契約時の銅の値段が33 万円/ トン。それが8 ヶ月後の着工時には97 万円/ トンですから。この時は、宮内庁のほうで先に手当てするようにと言われ、先に材料代を頂きました。値段の変動を考えると誰でもできるという時代ではありませんでした。

銅板保険

ちょっと余談になりますが、昭和39 年から40 年ごろにかけては銅が非常に値上がりした時期で、うちは銅屋根をよく剥がされました。屋根を張って翌日行くと無いんですよ(笑)。当時は銅板保険というものを… うちで銅板保険と呼んでいただけで正式な名称は他にあったと思いますが… 掛けていたのですが、その条件として現場に誰かが泊り込むことになっていました。ところが、たまたま職人さんが給料日で帰宅した日に盗まれたこともありました。

大阪でやはり1 日に張った分を全部剥がされたので夜中じゅう電気をつけておいたら、ご近所から苦情がきたり…(笑)。京都ではセメント袋に入れておいた銅屑を盗まれたこともあるのですが、この時は銅屑だったので面倒だから警察にも届けなかった。ところが2 年後ぐらいに警察に呼び出されて「盗まれたものを届けないのはいけない」とお叱りを受けたこともありました。つかまった泥棒がご丁寧に白状しちゃったらしい(笑)… いろいろとありましたね。

相談相手は留吉社長

この頃から私は銅板の勉強を始めたのですが、行き詰まることが多々ありました。そんな時に留吉社長に相談すると「それはお前考えすぎだよ。こうすりゃいいじゃないか」… それでいとも簡単に問題が解けるわけですよ。留吉社長はこういう面でも素晴らしかったですね。

皇居の桃華楽堂の屋根工事では、初めて設計の先生に逆らいました(笑)。当時、皇居の石垣の上には我々は登れなかったのですが、先生は上がることができました。上から見て我々 がやった“はぜの向き”に対して[それじゃダメ」と言われました。その先生に「私の言う通りにしてほしい」と抵抗したわけです。

「じょうろで水を撤きますから見てて下さい。先生のおっしゃる通りはぜを作ると全部水が入ります」と申上げて、実際に水を撒いたら私が言うとおりに水が流れたものだから先生も納得して、それに逆らわないはぜを採用してもらいました。今考えると、結構無謀でしたね。しかし、これをきっかけに色々な設計の先生とお付き合いさせていただくようになりました。

はぜの“太さ”と“捨て板”

鶴見総持寺

昭和39 年に手がけた鶴見(横浜市)の総持寺の屋根は、面積が7200 ㎡もありました。私の前の技術部長だった永塚さんが「これだけ大きな屋根を葺くには、普通のはぜじゃだめだ。もっと大きくしなきゃ」というので、従来のはぜよりも太くしました。それまでのはぜは3 分程度、9mm ~10mm ぐらいでした。我々は大型の銅屋根を手掛けるようになって「これじゃいかん」と感じるようになりました。社寺の銅屋根は一見すると昔と同じような仕事と見られがちですが、実際は様々な改良が加えられています。

成田山新勝寺

この意味で会社としても個人的にも意義深い仕事といえるのが、昭和42 年の成田山新勝寺の銅屋根です。これは、面積が7500 ㎡で総持寺よりも大きな屋根です。それまでに私の頭の中に、銅板で大きな屋根を葺くと故障が起きやすい、原因は銅板の伸縮じゃないか、という考えが常にありました。

成田山のご本尊の屋根工事では材料が支給材でしたので、研究にもふんだんに材料を使うことができました。この結果として開発したのが銅板の伸縮を吸収する“捨て板”です。この方法は、(社)日本銅センターの『銅板屋根構法マニュアル』 で公開したときに「あれ小野さんの特許じゃないの」と言われたぐらいです。この“捨て板”を初めて使った成田山は既に30 年以上経過していますが、問題は全く出ていません。

今では“捨て板”は銅板工事の中で定着していますが、当時は材料が高かったこともあり営業サイドからは「材料を食うからダメ」といった反発がありましたね。確かにl㎡当たり0.6 枚ぐらい余計に材料が必要ですから、3000㎡、4000㎡といった規模に成田山新勝寺なると馬鹿になりませんから。

(次号に続く)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/02/18(月) 00:44:24|屋根|

村野藤吾が名付けた「スタンディング工法」

連載4回目 銅板屋根とともに(下)

建築の世界では、元請けを飛び越して、専門工事業者と設計者が深い信頼関係で結ばれる、ということは珍しくありません。設計者の熱い想い(これは無理難題であることがほとんどですが)を大工・左官・板金・防水などの専門家が、誇りと時として度胸をもって挑戦・実現するという図式は、見ていて気持ちが良いものです。

村野藤吾というアーキテクトと斉木益栄というルーフィングエンジニアもそんな信頼関係でつながっていたようです。「お前が出来ないというなら、仕方がない。でもこうしたい。どうすれば可能か?」こんな会話は板金屋根だけではなく防水業界でも、かつては普通にありました。

斉木さんの「銅板屋根とともに」、後半部分に入ります。

銅板葺き屋根
銅板屋根工事のバイブル「銅板葺工事ー社寺建築を中心に」(1996年 日本銅センター刊)
編集者として斉木さんも6人の委員の一人として名を連ねている。

銅板屋根とともに(下) その①

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先月に引き続き、小野工業所の斉木さんのインタビューを掲載します。今月は、斉木さんの印象に残る銅板屋根についてエピソードとともに語っていただきました。

命名、村野藤吾

(社)日本銅センターの『銅板屋根構法マニュアル』を作るための委員会は昭和57 年ごろから始まったのですが、2 代目の辰男社長から「お前が行け」と派遣されました。その時に言われたのが「うちでやっていることは全部発表しろ。銅板仕事は小野だけいい仕事をしてもはじまらない。他が失敗したら何にもならない」ということでした。腹が太い人でしたね。

スタンディングシームもこの時に公表しています。委員会のメンバーだった錺工事ナカノの中野社長に「これは斉木さんの考えなのに出しちゃっていいの?」と言われた記憶があります。 

それまでは、銅板でもいわゆる立平葺きの構法でした。しかし、銅板は軟らかいですから、はぜを締めると片側に引張られてしまいます。また、アールなどの屋根では、反対のはぜになったときは切り返す必要がありますが、これはまずい。そこで「両側にはぜを作ってしまえばいい」と始めたものです。それまでは両側にはぜのある構法はありませんでした。

この構法を皆さんがはじめて見たのは、新高輪プリンスホテルの飛天の間の屋根じゃないでしょうか。設計の村野(藤吾)先生は、屋根の葺き方について希望があったのですが、銅板でやるのは不可能と思えたので、先生に「銅板は紙じゃありません。0.4や0.5 の材料では先生のおっしゃるようにはできません」と申し上げたんです。

先生はそれでも「できねえかなあ… 。あんた何かいいものないか?俺は細い線にしたいんだ」とおっしゃる。それで提案したのがこの構法で「これですと見える幅が1cmぐらいになります」と申し上げたら、「おもしろいなあ。見本を作れ」というのが始まりでした。名前についても村野先生に「はぜが立っているから、スタンディングでいいじゃないか」と言っていただいた記憶があります。

ハンダと墨出し

銅板屋根とともに②_ページ_1-3 新高輪プリンスホテル

新高輪プリンスでは、先生に粘上で作った模型を見せられまして「こりゃあまいったなあ…」と思いました。「先生どうするんですか?」と申し上げたら、「どうするんでもない。屋根を葺くんだぞ」って(笑)。写真を見ていただければ分かりますが、四方から谷が入って落し口は2 ケ所しかありません。谷は全部はぜ組みしてハンダ付けをしています。はぜ組みをしてハンダを付けるというのが、谷には一番いいと思いましたね。谷の下にはルーフイングを張っただけで何も入れていません。

ハンダ付けの部分は全てはぜ組みです。はぜを組めない部分は重ねチャンチャンですが、それ以外は、一度両捨てハンダをしておいてから、重ねてチャンチャンをして、再度上からハンダをつけます。そうしないとハンダが中まで浸透していきません。重ねてチャンチャンしても、せいぜい1cm くらいしか中に入りません。ようするにハンダでめっきをして重ねてしまうのです。こうすればなかなか切れません。…ところが職人さんはやりたがらない(笑)。こういう時は、そばで見てなきゃいけません(笑)。

落し口はメーター板で作りました。水が相当溜まってもいいところまで1 枚です。そこに平葺きのはぜが全て掛かるようにしてあります。

屋根葺きは、そんなに難しい作業ではありませんでした。ただ、墨出しが大変でした。職人任せにはできませんから、こちらで納得する線を出してやって葺いてもらいました。普通の線で作って屋根を葺くのではなく、レべルを出して型を取り、型に合わせて屋根材を作って張っていきました。

新高輪プリンスでは厨房の屋根工事もやっています。これも村野先生の設計なのですが、約
500 ㎡の屋根ですが、勾配が1 寸あるかなしです。それを銅板の平葺きでという指定でした。「先生、平葺きは勘弁して下さい」と申し上げても「どうしても銅板を使いたい」ということでしたので、下に3mm 程度のゴム防水を設けました。防水層に釘を打って大丈夫かを確認するために、見本を作り水を張って半年問そのままにして置きました。
(次号に続く)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/02/26(火) 00:44:24|屋根|

宝ヶ池で泣いたはなし

連載5回目 銅板屋根とともに(下)

画像の説明
この写真は宝が池ではありません。都心の寺院の巨大なかまぼこ銅瓦屋根です。

※ ※ ※

次の「銅板屋根とともに」は宝ヶ池のホテルの屋根で苦労した話です。
銅板屋根の匠は設計者の過酷な注文に応えるべく奮闘します。ところが奮闘したのは金属屋根屋さんだけではありませせんでした。凝りに凝った形状の屋根から雨漏りさせないように、斉木さんだけでなく下葺きの防水工事を担当したメーカーや工事店も泣きました。このころはちょうどシート防水、中でも加硫ゴム系シートが登場し市場での確かな足がかりを確保しようとしていた時期でした。採用する側も新たな防水工法の可能性を試していた時期ともいえます。そこで当時まだほとんど実績のなかったゴムシートが採用されたのですが、ところが現在と違って接着剤の性能が防水材に追いつかなかった。メーカーや防水工事店は試行錯誤、さんざん苦労します。この京都の北にあるホテルや国際会議場を担当したゼネコンの技術者や、工事、メーカーの担当者は今でも一様に、「宝ヶ池」という名を聞くと、感慨深げにため息をつきます。

銅板屋根とともに(下) その②

私の宝物

村野先生には色々と勉強させられましたが(笑)、まだ新高輪プリンスの仕事はよかったんです。この後に出光迎賓館の屋根をやったのですが、これは屋根の中間にダムが作ってありました。屋根の途中に堰き止めがあって、そこから先がまた屋根になっていました。この場合は、メーター板で全て捨てを葺いて、上は化粧で葺きました。吊子は全部ハンダ付けです。釘止では穴が開きますからね。この建物では村野先生の仕事は、もう懲りたと思いましたね(笑)。

銅板屋根とともに②_ページ_2-1 宝ケ池プリンスホテル

あと村野先生の設計で印象に残っているのは、宝ケ池プリンスホテルですね。これは庇部分の屋根の流れが微妙なアール形状になっている上に建物が円形です。構法はスタンディングシームで長さは1m200 程度でした。当初は安易に考えていたのですが、ロール成型でやろうとすると、これがなかなか上手くいかない。最初は手回しのロールを作ったのですが、これはダメ。次にロールをコンピュータで… この時に初めてコンピュータを使いました… R 部分を制御しながら絞っていくようにしたのですが、今度は立上げ部がべコべコしてしまう。

最終的にはロールの脇に歯車をつけて、立上げ部の伸び縮みを自由にできるようにして、なんとかクリアーしました。おかげで、この現場では足こそ出しませんでしたが、利益はありませんでした。その記念に成型機を工場に取っておいたのですが、いつのまにかスクラップに出されちゃいました(笑)。

村野先生とは長いお付き合いだったので、先生が亡くなられた時に追悼文集に私も少し書かせていただきました。その際に先生の事務所から村野先生のスケッチ集を頂戴しました。これは私の宝物です。

残念なこと

設計の先生は自分の思う通りの線を引きますから、それに我々がどう応えられるかでしょうね。それがこの仕事の面白味だと思います。設計の図面通りにやっていいものかどうかの検討から始まり、先生方との打ち合わせもよくやりました。

中には残念に思える経験もしました。ある建物の設計図を見て「この屋根は絶対に雨が漏る」と思ったものですから、ゼネンコンさんとの打ち合わせの席上で「うちではできません」と言い切ったんです。ゼネコンさんも「小野が漏るといっているんじゃしようがない」と言ってくれて、設計変更をお願いすることになりました。

ところが、設計の先生は「漏ることは分かっている」という反応でした。「小野が漏ると言うのなら、漏らない方法を考えろ」という言い分です。結局、ゼネンコンさんが二重防水のような格好で屋根を葺く方法を考えて施工したのですが、10年ほどたった後で失敗であることが判明し、屋根を葺き替えています。

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

2013/03/05(火) 09:10:32|屋根|

(つづく)

銅板屋根職人は光の魔術師

連載6回目 銅板屋根とともに(下)
シャボン玉の光干渉膜で金色の屋根がつくれるか

光干渉

丹銅や金箔ならまだしも、30ミクロンの金をクラッド、光干渉膜、インクララック…と言った単語が、会話の中に次々あらわれると、「えっ!あなたは何屋さん?」という気分になります。実はこれは銅板による屋根工事の話です。

ピカピカの東京駅ドーム

ピカピカの東京駅ドーム。自然の緑青による発色を待って、もちろん何もしません。2011年9月26日撮影。現在では落ち着いた10円玉の色ですね。

※ ※ ※

銅板屋根は時間の経過で、自然に緑青によって緑になりますが、最初から緑が欲しい、と言うせっかちな施主のためには人口緑青の技術を使います。これはペンキを塗るわけではありません。塩化亜鉛による表面処理です、金色にして欲しいと言う要求もあります。そんな時は光干渉現象を応用できるかも。

自然界ではシャボン玉、蝶の羽、貝殻などがそうです。燐片の形状をした微粒子顔料を素材にした光干渉顔料による光干渉効果で、薄く、平滑で、鏡面の様に高反射膜が形成され、見る角度により、金色から青、赤まで明るく高彩度な発色を実現します。

またインクララック塗装とは、銅合金の酸化を防ぐ為に国際銅研究会(INCRA)が開発した変色抑制剤(ベンゾトリアゾール)含有の透明クリヤー塗料がインクララッククリヤーです。

山奥の村で木を割って、木羽葺きから屋根葺きの仕事を始めた斉木さんの「銅板屋根とともに」、今回は金色の屋根、太閤さんの大阪城の屋根の話です。

銅板屋根とともに(下) その③

丹銅を屋根に納める

崇教真光世界総本山

この他にも幾つか思いで深い建物があります。まず、岐阜の高山にある崇教真光世界総本山。これは屋根を黄金色にしなければいけませんでした。最初に考えたのが銅板の光干渉で金色に見せる方法で、これはなかなか良い色が出ました。しかし、ハンダ付けをしようと塩酸をチョッとでも垂らすと、光干渉膜が流れてしまい使えませんでした。次は真鍮板。これは思うような色がない。金めっき… 銅板に30 ミクロンの金をクラッドすること… まで考えました。

最終的にはある業者さんから提案のあった丹銅に決まったのですが、それからが大変。丹銅は銅が90% 、亜鉛が10% の合金です。ただでさえ、銅は伸縮により問題が出やすい素材なのにさらに亜鉛が加わるのですから、もっと伸縮の影響が大きくなると考えられました。

どう対策を取ろうかずっと考えていたのですが、夜中に眼が覚めて「木羽葺き形式にしちゃえ」という考えが浮かんだのです。はぜを付けずに重ね葺きにすれば、伸縮は逃げられますからね。縦はぜを組むと伸縮の影響が出ますから、はぜを付けずに働き幅の1/2 の600 で重ねていく方法です。二重葺きですから1 寸勾配でも漏りません。この辺りは昔の木羽葺きの経験が生きたのかもしれません(笑)。

単に平板を重ねると毛細管現象で水を吸い込みますから、屋根板にさざ波をつけました。実験したら50mm 程度しか吸い込みませんでした。単に板を重ねた方法ですから、他にも実験で色々と確認をしました。-28℃の冷凍庫での凍結実験、風洞実験などできる研究は全てやりました。谷どいも幅が2m ありましたので、0.6mm の銅板で巻きはぜを組んで裏ハンダをしています。板も直角に折ったら絶対ダメですから、単管パイプで治具を作って折らせました。

丹銅は亜鉛が人っていますから色が変わりやすいのです。銅よりも緑青が出ます。このため、何とか色が変わらない方法も考えなければいけませんでした。最終的にインクララック塗装を施すことにしました。これはある錺工事( ナカノ)さんがやった栃木県の知事公舎の屋根を見て決めました。

インクララックは塗膜の密着が良く銅板には最高に良い塗装ですが、塗膜がすごく硬く曲げると割れてしまいます。このため屋根材の成型と塗装を2 度に分けて行いました。1 度成型したものを塗装工場で塗装し、再度成型してまた塗装しています。

古い銅板を再使用する

大阪城

大阪城の改修工事は別の意味で苦労しました。これは新しく何かを考えてやるというものではなく、昔の銅板をそのまま使うという仕事でした。屋根に使われていた銅板は0.6mm 程度のもので、再使用でききるかどうかを1 枚剥がして調べたのですが、数ミクロン位しか減っていませんでした。充分再使用できる状態で、実際90% 程度は再使用しました。新しいもので葺いたのは1 割程度… ということで改修を始めたのですが、これが何とも(笑)。

例えば、銅板の緑青色は大阪城のシンボルということで残さなければいけませんでした。ところが鳩の糞が相当付着しており、これをきれいにする必要がありました。工業用の掃除機で吸い取れば、鳩の糞など簡単に取れます。しかし、緑青まで剥がれてしまう。それじゃダメというので、家庭用の掃除機で1 枚、1 枚やりました。使われていた屋根材は銅瓦といって1 枚の大きさが瓦程度のものです。それが約5 万5 千枚ありました。これを全て剥がして、清掃したものを叩いて直して再使用しています。

錺金物の金箔も1000 枚で30g という特別なものを使っています。金箔は普通、1000 枚で28g が最上品といわれており、ここで使ったのは特別な業者しか作れない金箔でした。墨も大変良いものを使い、日本酒を使って擦っています。日本酒を使うと水で擦るよりも、艶が良くなるそうです(笑)。

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/03/12(火) 00:44:24|屋根|

「自分ができなきゃ職人はついてこない」

連載7回目 銅板屋根とともに(下)

「自分ができなきゃ職人はついてこない」という言葉は、防水工事の取材の際、良く聞きました。工事店の管理者がえらそうに指示しても、職人たちは、なかなか思うようには動いてくれません。特に昔はそうでした。防水に限らず建築の専門工事ではどこも同じだったはずです。もちろん板金工事でも。

横浜開港記念館
横浜開港記念館

RN138号の絵日記(トイ日記)で紹介した鮟鱇は築地東本願寺の竪樋でした。現在小野工業所で顧問を務める中原征四郎さんによると、本願寺のかまぼこ屋根を葺いたのは先代社長の小野留吉氏。その改修工事であの鮟鱇を作ったのが入社2年目の中原さんだった。樋のことで職人から相談されるとよく「築地本願寺の樋を見てこい」と言ったそうだ。

でんでん

「いわば鮟鱇鉤あんこうかぎ」なんて勝手なことをいいましたが、この竪樋固定金物、鋳物製で「でんでん」というそうです。

銅板屋根とともに(下) その④

改修工事での気づかい

銅板屋根とともに②_ページ_5-2 日光田母沢「旧御用邸」

日光田母沢御用邸の改修工事も印象に残っています。この建物は、大正天皇のために建てられたもので、先の戦争中は現在の天皇陛下が疎開されておりました。とても素晴らしい建物です。当初の屋根は柿葺きでしたが、それを昭和6 年から8 年の3 年間掛けて銅板に葺き替えています。この屋根の改修を担当しました。

屋根の総面積は6.600 ㎡程度ですが、何棟もの勾配の違う屋根が全て谷と棟でつながれています。葺き足は60mm ほどです。最初は定尺四つ切で葺き足130mm での改修を考えたのですが、「昔のままに改修」という方針でしたので、葺き足などは従来のものに合わせました。

しかし従来の屋根はほとんどの谷が雪で起こされているなどの故障も見られましたから、谷のはぜの位置や方向など安全上重要と思われる部分については事故が起きにくいように、こちらの要望どおり変更していただきました。

天眼鏡で復元する

横浜開港記念館

それと横浜開港記念館の修復でしょうか。この建物は関束大震災で上部が飛んでしまったままになっていました。これを復元しようということになったのですが、当時の図面は無く、写真が残されていただけでした。元の柱などは残っていましたからそれで寸法を押さえて、写真と照らし合わせていきました。天眼鏡で写真を見ながら「これはこうかな…。こうしなきゃダメかな」といった感じで銅板の部分を復元していきました。

その作業も大変でしたが、工事の終わる時期になって職人さんが間に合わなくなり、私も部下を連れて現場で2 晩徹夜。大事な所のハンダ付けは私がやりました(笑)。

完成したときに偶然、図面が出てきたんです。建設したときに監督をされていた方が亡くなり、そのご自宅から図面が発見されたそうです。その図面を元請の清水建設の方が持ってきて比べたのですがバッチリでした(笑)。天眼鏡を見ながら作り上げたものと図面が全く一緒でした。作り話のようですが、これは最高の経験でしたね。まぁ図面がもっと早く出てきていれば、仕事は楽だったでしょうけど… (笑)。

(次号に続く)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

(つづく)

2013/03/20(水) 00:44:24|屋根|

斉木さんの銅板屋根のお話最終回

連載8回目 銅板屋根とともに(下)

若い人たちは「この仕事は楽しい」と言いますよ!!(斉木さん談)

ボランティアの茅葺指導員
金属屋根ではありませんが、写真は都内の民家園で、茅葺きを指導する若いボランティア。

※ ※ ※

このインタビューは平成15年7月に㈳日本金属屋根協会編集委員長の大江源一さんが斉木さんから聞き出したものです。最終回のお話のキーワードは「職人冥利」、「若い人への期待」。締めくくりにあたってもう一度、斉木さんを紹介しておきましょう。

昭和の初め、神社仏閣や公共建築を除くと、都市圏の一般住宅の屋根は瓦、山村では茅葺き、板葺き屋根の家が一般的でした。斉木益栄さんは、昭和7年、新潟県の十日町から3里ほどの山村で木羽(こば)葺きの職人の家に生まれました。昭和23年に尋常小学校高等科を2年で終えて親方に弟子入り、ルーファーとしての歩みを始めます。

昭和27~8年ごろになって、やっとトタンが市場に出回わってきました。木羽と比べてトタン葺きの作業効率は5倍以上。さらに木羽に割れるような良い木も減ってきたので、屋根は急激にトタンに変わっていきました。

そんな時期に出稼ぎで上京、板金の仕事を覚えてゆきます。屋根を葺くという作業を知りつくした斉木さんは、長年にわたり(株)小野エ業所の技術部門の責任者をつとめてきただけでなく、日本銅センターや日本建築学会において銅板屋根に関するマニュアルや仕様書の作成も担当してきました。小野工業所は多くの板金技能士を育成し、また同社が最も得意とする社寺建築の新築屋根をはじめとし、歴史的重要建築物の史実に基づいた屋根修復、改修エ事にも数多く携わってきました。

このインタビューは長時間に渡るものでした。限られた紙面に収めるには、かなり大胆にカットせざるを得なかったはずです。斉木さんはまだお元気だそうですから、改めて質問攻撃を仕掛けていきたいと思います。

銅板屋根とともに(下) その⑤

職人冥利

銅板屋根とともに②_ページ_4-2 鶴見総持寺三松閣

社寺建築の銅屋根とこういった建物での銅屋根は少し性格が異なります。社寺の銅屋根にも特有の難しさはありますが、うちには経験豊富な職人さんがたくさんいます。彼らは社寺については良く知っていますから、任せておいても大丈夫。私が出る幕は、ほとんどありません(笑)。ところが、今まで申し上げたような建物は、職人さんはそれほど経験できるわけではありません。こういう建物の屋根を銅板で如何に作り上げるかを考えるのが、私の仕事であったように思えます。

小野には設計の先生に気に入っていただいている職人が結構います。これは職人冥利に尽きることですが、これはこれで大変なんです。大森(健二)先生は気に入った職人の都合がつかなかったら、「俺はあの職人じゃなきゃダメだから」と言って、屋根の工期を1 ヵ月延ばしてしまいました。現場は屋根にシートを掛けたまま1 ヵ月ストップ。これには驚きました。忘れられませんね。

銅板屋根とともに②_ページ_4-1 相模ーノ宮寒川神社

あるお寺の住職さんから「あの人なら安心」と思われている職人の手が空かないので、「1ヵ月後なら」と申し上げたら、それでもいいということになって6 月一杯で終える予定の仕事が、これから着工という事態になってます(笑)。(注:インタビューは、平成15 年7 月に行いました。)

先生方に気に入ってもらえる職人というのは、技術が優れていることは当然ですが、自分たちがやっている仕事に対して、先生から「これは、どうなっているの? 」といった質問を受けたときに、丁寧に自分の仕事を説明する人のようですね。

若い人への期待

これまでにお名前をあげた以外にも谷口(吉郎)先生や内井(昭蔵)先生など様々な設計の先生方とお付き合いさせていただきましたが、先生方がやりたい形をこちらで読取っていこうとする姿勢が大切です。杉山(隆)先生などは、「俺の設計はいつも難しくてごめんなさい」などと笑っておられますが、そういう仕事をやらせてもらえたのは、やはり得がたい経験ですね。吉田五十八先生のお仕事で、先生の指名で当社が施工する仕事の模型をたまたま他の業者がやってしまったら、現場に来て一目見るなり「これは小野さんが作ったんじゃないね」と、すぐにうちの職人を人れて作り直し。こういったこともありましたね。

うちの若い社員も先生方とお付き合いを始めていますが、少し困ると[会社に帰って斉木と相談します」などとやっては「いつまでも斉木に頼っているようではダメだ」なんて言われているようです(笑)。でも、彼らは「この仕事が楽しい」と言います。同じ仕事でありながら全て変化しているから楽しい、と。難しい仕事でも何とかしようという気持ちで仕事をしていますから、私も彼らには期待しています。どう育っていくか楽しみです。

私たち専門業の技術者として、お客様(設計者)の描く構想に少しでも近付けられるように、研究と努力が必要かと思っております。

(完)

日本金属屋根協会機関誌「施工と管理」より転載

2013/03/27(水) 00:44:24|屋根|

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