今でも「燃える土」は見ることができる
今でも「燃える土」は見ることができる
天然アスファルトの露頭が見られるジオパーク
ここでしか見られない天然アスファルトの露頭
平野さんが、アスファルトが見える層に先導してくれる。地域の共有地で農家が田んぼの土を採っていた。その時現れたのが黒い「土瀝青」だった。
日本における天然アスファルト利用の歴史に関して、資源開発のベテランエンジニアで、近代化産業遺産群と地質遺産としての豊川油田保存活動・NPO「豊川をヨイショする会」の理事長である佐々木榮一さんの勧めで、秋田県豊川へ。
この露頭では船川層という今から約600万年前の地層ですが、地層がたまった場所は水深が1000mより深い、大水深の海底でした。
ちなみに、この泥岩は有機物の含有量が多いので、田んぼの土として良好であると言われています。従って、この豊川の真形地区のお米は大変美味しいと言われています。なお、この地層が現在地表に出現しているのですから、大地の営みのすごさがここにあります。天然アスファルトは写真の全体として黒い所では無く、その部分の割れ目に存在をしています。(佐々木榮一さん 談)
なるほどこれなら、小堀鞆の「燃土燃水献上図」の通り運べるはずだ。歴史考証の鬼・小堀鞆音は豊川でこれを見たか?
2011/12/30(金) 07:54:48|ARCHIVES|
今でも「燃える土」は見ることができる その1
アスファルトマニアが語る、天然アスファルトの湧出地・地質遺産としての豊川油田の魅力
天智天皇に献上されたのと同様の「燃える土」を見ることができる
天然アスファルト採掘風景(明治30年頃。槻木地区。写真提供:豊川油田展示室)
天然アスファルト採掘後水がたまり現在は池になっている。
668年天智天皇即位の年に越の国から燃える土(天然アスファルト)と燃える水(石油)が献上されたという。
日本書紀の記載にされた「献上地はどこか」という明治から続いた論争は、現在新潟の黒川村(現材の胎内市)である、ということで一応の決着を見ている。確かにその当時燃える土と燃える水は黒川村で産出したのだろうが、現在では当時の面影はない。現在でもアスファルト(燃える土)の層が露頭し、燃える水が地面からしみだしてくるのを見ることができるのは、秋田県豊川村(現潟上市)真形尻、鳥巻沢地区などである。
この地の産業史上の価値と地質学上の価値に注目し、豊川油田を近代産業遺産としての認定を勝ち取り、NPO「豊川をヨイショする会」を設立して、産業遺産の施設やアスファルトの露頭地の保存活動を進めているのが佐々木榮一さんだ。ルーフネットでは年頭にあたり連続記事として4回にわたって豊川の魅力を佐々木さんから紹介していただきます。
>>佐々木さん写真<<
佐々木さんのプロフィールは以下の通り
>>プロフィール<<
豊川油田に於ける3つの魅力とは?
- 豊川油田地域は天然アスファルト(土(ど)瀝青(れきせい))の産地である。
- 豊川油田の原油・天然ガス生産と操業の歴史。
- 天然アスファルトの湧出地、地質遺産(大地の遺産)の魅力。
天然アスファルト(土瀝青)の産地の話
縄文時代における天然アスファルトの利用の話
大昔のアスファルトの利用と聞くと、エジプトでミイラ保存のためにアスファルトを表面に塗りこんで保存している話はご存知かと思います。日本国内ではそれより古い5000年の縄文時代から利用されており、北は北海道から南は関東地域まで天然アスファルトの遺物が縄文時代の遺跡から出土している。主な利用は矢じり等の柄の部分を固定するための接着剤である。他には土器や土偶の割れ目の接着にも使われている。珍しいものとしては鴻上市狐森遺跡から出土した「人面付環状注口土器」(国指定の重要有形文化財)にはアスファルトでコーティングされている。豊川油田から僅かに4km離れた遺跡である。また、田沢湖の湖畔で発掘された「潟前遺跡」では重さ3kgものアスファルト塊が出土した。恐らく、豊川油田地域から運搬されたものであろうと推測されている。
アスファルトコーティングの土器
この土器は重要文化財に指定され秋田県立博物館でミュージアムグッズ売り場では一筆箋の表紙にもなっている。
今でも「燃える土」は見ることができる その2
新潟県豊川油田地帯には、天然アスファルトに関する多くの自然遺産や採掘装置などの近代化産業遺産が残っている。平成19年11月に豊川油田は経済産業省から近代化産業遺産群として認定されたほか、平成20年には「日本の地質100選」の一つとして認定された。
それらを保存するために活動しているのがNPO「豊川をヨイショする会」。その中心人物意が佐々木榮一さんと事務所が置かれている東北石油社長の平野俊彦さんだ。東北石油本社内に多くの豊川油田展示室が常設され、多くの資料が展示されている。前号「ルーフネット79号」から、掲載しているこの記事は、実は豊川油田の魅力を知らせるために佐々木さん達が作った、ガイドツアーのため資料だ。
東北石油平野社長。後ろは展示室。
今回紹介するのは、天然アスファルトの産業への応用の話。
概略は第1回記事の末尾に掲載したが、解説と写真を加えて、今回の読み物とする。
天然アスファルトの産業への応用の話
天然アスファルトの産業への応用の話
江戸時代後期になって黒澤利八は豊川村に移り住み、土瀝青から油煙を製造する技術を確立した、油煙はニカワと混ぜて、油煙墨として、遠くは江戸、京都や大阪まで販売されたと言う。他に油煙は染料などにも利用された。その製造は明治末まで続いた。
万代石(上)と原料の土瀝青(下)
三代目黒澤利八(平八)は明治10年上野で開かれた内国勧業博覧会に土瀝青と抽出した灯火用油を展示した。そして、東京市長でもあった由利公正(ゆりきんまさ)は黒澤利八からその土瀝青を購入して、アスファルト舗装を実演したが、火災を起し、失敗した。翌年神田の昌平橋でアスファルト舗装の実践に成功した。
この事業以降、天然アスファルト(土瀝青)の需要が増え、その採掘事業が活発化した。明治30年中頃から天然アスファルトの採掘業者が増えて大混乱の状況であったようです。その混乱を収めるために広田万治、黒澤利八、鈴木農太郎、平野源次郎等が協議した結果、その筆頭に平田万治がなり、その操業を平野源次郎が一手に引き受けて採掘をおこなった。なお、平野源次郎の業績を記す石碑が昭和公民館前に存在している。
この天然アスファルト採掘中には様々な遺物が出土している。氷河時代に生存していたナウマンゾウの歯の化石、旧猪の頭骨、鹿の骨等の動物化石や縄文時代の土器などの遺物である。
明治40年以降になると採掘会社が設立され、中外アスファルト(株)、日本アスファルト商会の2社が中心となっていた。明治42年には年間4,137トンも生産をおこなったが、大正10年には全くおこなれなくなった。その理由には埋蔵量が少なくなったのと、豊川油田の発見によって得られた石油系アスファルトの増加であった。
「豊川油田」展示室・開設ガイドツアー資料(文責:佐々木 榮一)より
今でも「燃える土」は見ることができる その3
近代化産業遺産群として認定された豊川油田はNPO「豊川をヨイショする会」が管理しており、見学コースが設けられている。ルーフネットとしてはアスファルト関連の施設や地層にばかり注目してしまうが、「油田」の名の通り、コースのメインはポンピングぐパワーユニットだったり、パワーベルト小屋、採油井の櫓や試掘井跡、深掘井跡等の施設だ。今回はアスファルト採掘施設の話題から離れて、油田発見の様子を見ておきましょう。
豊川油田の発見と原油・天然ガスの生産と操業の歴史
豊川油田の発見と操業の話(その1)
明治45年中外アスファルト社は綱式掘削機を購入して、掘削を開始したところ、大正2年深度413mで油層に遭遇した。これが豊川油田の発見である。この中外アスファルト社は社名を中外石油アスファルト(株)として掘削を継続して行き、大正6年には日産36klの原油を生産した。なお、同社は大正7年6月宝田石油に買収された。
この発見により、様々な石油会社がこの豊川地域に参入をしてきた。例えば、中野興業(株)、小倉石油(株)、日本石油(株)更に大日本石油鉱業(株)などである。
大正10年日本石油(株)と宝田石油(株)が合併し、豊川油田の大半は日本石油(株)によって操業された。この年には年産油量は87,000klと最高に達している。
摂政宮殿下(昭和天皇)豊川油田のご訪問の話
御召しトロッコ(トロともいったそうだ)。このトロは昭和20年まで豊川小学校で保管されたが、終戦後焼却されたという。(写真提供:豊川油田展示室)
摂政宮殿下(昭和天皇)豊川油田のご訪問の話
大正14年(1923)10月16日摂政宮殿下はお召し列車で大久保駅に到着され、更にお召しトロッコにご乗車されて豊川油田をご訪問された。トロッコを下車されて、約700mの山道を登られ、標高54mの現在の「御野立所」にて豊川油田を一望され、日本石油(株)内藤社長から豊川油田についてご進講を受けられた。
その1年後に昭和の時代が始まった。
また、昭和6年8月20日に澄宮殿下(三笠宮崇仁)が豊川鉱場をご訪問されている。
豊川―黒川間のトロッコ路線図が見える。廃線マニアにはたまらないだろう。(写真提供:豊川油田展示室)
豊川油田の原油・天然ガスの操業の話(その2)
昭和に入って、原油の生産量は減少を続けた。昭和8年には最盛期の四分の一の約2万klとなった。この原油の増産を目的に米国製ナチョナルポンピング装置が大正10年以降徐々に導入された。この装置の導入によって、豊川油田の丘陵地は約20ヶ所のポンピングパワー装置が設置され、そのワイヤーを繋ぐ踊り木と共に揺れ動くギーコ、ギーコと音が一晩中続いていた。
昭和17年日本石油(株)の操業は帝国石油(株)に変わった。戦時体制の強化のためであった。戦後になって、昭和31年8月この豊川油田の操業は帝国石油(株)から東北石油(株)に変わった。この年の生産量は約4000klであった。豊川油田に於ける記録上の総坑井数は716坑井であったが、この時点では採油坑井は222坑井であった。
昭和41年12月東北石油(株)は天然ガスを秋田市営ガス(株)へ販売を開始した。
東北石油(株)は平成13年(2001)に原油の生産を停止した。その前年の原油年生産量は約540klである。原油生産の開始から87年の歴史である。
現在、僅かな量の天然ガスを生産・販売している。
平成12年(2000)末までの原油の累積生産量は約128万klで、天然ガスは約3,600万m3とされる。
平成19年11月に豊川油田は経済産業省から近代化産業遺産群の「認定」を受けました。
「豊川油田」展示室・開設ガイドツアー資料(文責:佐々木 榮一)より
ポンピングパワーシステム。モーターの回転を巨大なホイールとベルトで水平方向の動きに変える。
今でも「燃える土」は見ることができる その4
地表付近に浸み出した原油の揮発性成分が失われ、残ったものが天然アスファルトです。
日本書紀天智天皇七年(668年)7月の条に、越の国から燃える土(天然アスファルト)と燃える水(石油)が天智天皇に献上された、と記されており、その献上地が新潟県黒川村(現・胎内市)であることが、現在定説になっています。この事は本サイトで何度もお伝えしてきました。
ところで昔はそうであったことは解ったが、今はどうなのだ?燃える土や燃える水は見ることができるのか?という疑問がわいてきます。新潟県黒川ではいまでも燃える水=石油が水とともに湧出しそれ天智天皇の時代と同じ様にすくって、滋賀県近江神宮に献上する「燃水祭」が毎年行われています。
一方肝心の「燃える土」は現在の新潟では見ることができない様です。それが可能なのが秋田県潟上の豊川油田です。
撮影:防水の歴史研究会・森田喜晴
今回のダイジェスト4回目はシリーズ最終回です。佐々木さんに豊川油田の地層としての特殊性を紹介していただきます。
石油の層と石炭層(秋田大学鉱山資料館)。
燃える土は「天然アスファルトではなく、石炭や泥炭ではないか」という説もかつてあったが、それぞれの由来する素材や地層は異なる。
天然アスファルトの湧出地、地質遺産(大地の遺産)の魅力
地質遺産としての魅力の話
豊川油田は国内では非常に珍しい油田である。
その理由;
・油田の地質構造は逆断層を伴うドーム状又は単斜構造である。
・原油を貯めている貯留層は主として泥岩などが破砕されたフラクチャー油層である。
・原油の性状はアスファルト分が多い、粘性の高い重質油である。
豊川油田の丘陵地は今から約600万年前に深海に堆積した泥岩層(船川層という)から構成されている。近くの船川層からなる地質の露頭を観察すると瀝油(ベトベトした油)又は天然アスファルトが滲出している所がいくつかの場所で確認される。
豊川油田地帯は割れ目が沢山存在している事になります。その割れ目に沿って油が染み出してきて、天然アスファルトとなり、沖積地に貯まりアスファルト池が出来たかもしれません。その天然アスファルトの池にナウマンゾウや猪が入り込んで、動けなくなり、化石となったのでしょう。想像してみると楽しくなります。
丘陵地には天然アスファルトで充填された段丘堆積物(砂礫層)が株山地区、荒長根地区に存在しています。
その成因は明らかではありませんが、私は段丘堆積物の下の船川層から天然アスファルトが浸み込んだのではないかと推定しています。
なお、平成20年「豊川油田」は珍しい地質遺産を抱えている所として、日本の地質百選の一つとして「認定」を受けました。
「豊川油田」展示室・開設ガイドツアー資料(文・佐々木)より