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日本金属屋根協会が「銅屋根クロニクル」連載開始

日本金属屋根協会が「銅屋根クロニクル」連載開始

正倉院の屋根の話が㈳法人金属屋根協会の機関誌に掲載されました。
銅板や銅屋根をめぐる話題。第1回は正倉院「瓦を下した正倉院正倉」

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社団法人日本金属屋根協会が毎月発行する機関誌「施工と管理」の2月号から「銅屋根クロニクル」が始まり、第1回の記事に昨年9月に行われた工事現場公開の様子を書かせていただきました。

この企画は日本の重要な近代建築や寺社建築のとその銅屋根を紹介し、板金職人の技と心意気を伝えようというものです。第1回は特別編で6ページとなりましたが、次号からは毎回1ページで、物件と紹介と銅屋根施工のポイントを紹介してゆきます。

「施工と管理」の2月号②

1200年以上前に東大寺の宝物殿として創建された正倉院。本来正倉院とは寺の宝物を保存する倉庫という意味でした。だからあちこちに正倉院がありました。ところが1000年を超える年月の間にほとんどが焼けたり、壊されたり、朽ち果てました。結局東大寺の正倉院だけが残ったというわけです。

「施工と管理」の2月号③

その正倉院は瓦葺ですから銅板葺の出番はないはず。ところが100年ぶりの大改修で、瓦がすべて下されると、あちこちに」銅板が見えます。どうして?そこでこの記事が掲載されることになりました。

施工と管理」の2月号表紙
「施工と管理」2013年2月号P2-7に掲載されています。

詳細は後日、日本金属屋根協会の許可を得て転載させていただく予定です。今回はあとがきの一部を紹介しましょう。

銅板が日本において屋根材として使われたのは奈良の西大寺(765年)が始まり(㈳日本銅センター銅板葺屋根編集委員会編「銅板葺屋根―社寺建築を中心にー」より)とされています。

正倉の根太の鼻先にまかれた銅板は創建時にはなかったものですが、今や正倉の意匠上、重要な役割を果たしています。今回の100年ぶりの大改修工事で瓦がすべて下され、今まで見えなかった正倉の各所で銅板の使用が確認されました。もちろん創建当時のものではなく、早いものでも元禄時代、棟覆いや丸環は100年前の大正大改修の時代と思われます。校木の隙間のベローズシールのような小さな銅板は恐らく、大正時代以降でしょうが、その時期を特定できる記録はありません。

正倉院など国宝や重文に限らず「文化材修理の基本は、創建時の状態を尊重し、新たな改変は極力避ける」という考え方です。今回の修理においても再利用可能な瓦は葺きなおされます。割れて使えない瓦も多く、今回は半数以上が新たに製作されます。そのとき参考にするのは創建時である天平時代の瓦です。

文化財の補修で難しいのは、「創建時の状態に」といってもそれがどんな状態であったのか特定しにくいからです。まして日本は石ではなく木の建築文化です。火災を免れることはまずありません。数百年、時には千年の間に手が入らない事はありません。その間どんな改・補修修が施されたかという記録が残されていることは極めてまれです。

今、たまたまこういう形になっているけれど、創建時からそうだったという保証はありません。個々の部材や納まりに関しては、誰か応急処置として行った可能性の方が高いと思われます。正倉の棟を覆った銅板や、校倉の隙間の銅板は誰がいつ指示したのか、練りに練った改修計画に基くものなのだろうか、雨漏りで困って、とにかく緊急に対処したのだろうか。そしてどんな思いで施工したのだろうか。正倉院といえば校倉。荘重な正倉の校木の隙間に詰め込まれた石膏や銅板、青銅の丸環などを見ながらあれこれ想像が広がり、実に楽しい現場見学でした。

※ ※ ※

原稿の最後に、「次回の見学会は3月15日(金)、16日(土)、17日(日)の3日間実施され、筆者も申込み済みです。再びこの中に入ることができれば、続報をお伝えします。」と書きましたが、運よく3月16日の枠に入ることができ、今、始発ののぞみで奈良に向かっています。続編をお楽しみに。

2013/03/16(土)08:02:13|屋根|

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