「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く-

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く-

「板金いま、むかし」ルーフネットで連載開始。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く-
「施工と管理」より転載。

画像の説明

東大寺や東寺五重の塔、東京駅やスカイツリー…。建築という行為は今も昔も、まさに「匠」と言われる数多の職種の職人たちの絶妙な連係プレーによって紡ぎ出されてきた。1000年以上前から職種として確立していた大工や左官、屋根葺き職人たちだけでなく、ほんの100年前から登場した鉄筋工や防水職人等まで。どの職種も建築にはなくてはならないものでありながら、その社会的評価や目立ち方には随分開きがある。そんな中でも、NHKのディレクターは大工や左官といった昔から陽の当たる職種にくらべて地味だった職人たち、さらには檜皮師やクレーンのオペレーターといった超マイナーなプロフェッショナル達にピンポイントのスポットを当てて、ドキュメンタリー番組を制作する事もある。それでも陽の当たる順番の廻ってこないのが防水工だろう。

ルーフ=屋根をキーワードとするルーフネットのミッションは屋根と防水に関わる人の技術と経験、意地と根性と心意気を示すことである。このほど、気になりながら取り上げられなかった板金職人の技の記録を見つけ、紹介出来ることになった。それがこれ。まずは銅板屋根職人の鴨下松五郎さんだ。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、鴨下さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載した。今回金属屋根協会の許可を得て転載紹介する。

鴨下 松五郎 氏 (故人・平成13年4月14日逝去)
1907年(明治40年)生まれ。
勲六等単光旭日章、労働大臣卓越技能章、日本銅センター賞などを受賞。
聞き手:大江 源一 氏(当時「施工と管理」編集委員、現・広報委員長)

画像の説明

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ①

─ 鴨下松五郎氏に聞く(上)─

金属屋根の世界は「長尺」の素材が供給されるようになってから大きく変わりました。これは屋根の形式や技術だけでなく、業界で生活する人々の「暮らしぶり」にも言えることかもしれません。しかし、現在の金属屋根は「長尺」以前からの技術や経験、そしてその時代の人々によって育て上げられてきたものです。

そこで、今月は東京の業界の長老である鴨下松五郎氏に「板金いま、むかし」と題してお話をうかがいました。

※ルーフネット注:本稿は、(社)日本金属屋根協会機関紙「施工と管理」に平成7年4月号(No101)から4回に分けて掲載されたものです。板金業界初期の事情が良くわかるものとして好評を得ました。同協会の許可を得て掲載いたします。

トロ

 昔の話をして欲しいということなんで、まず材料の話から始めましょうかね。我々板金屋は昔は材料にそれは苦労させられましたから。これは皆さん聞いたことがあるとは思いますが、石油缶を開いたものをだいぶ使いました。石油缶はハンダで付けてありますから、それを火で温めましてね。口のところからポンポンと叩いて抜いて、切り開いて作ったものです。これを屋根や樋に使ったものです。

 開いたところは、ハゼがありますから樋などを作る際は「ふち巻き」は出来ませんでした。せいぜい「アダ折り」ぐらいしか出来ない。それと「口」に当たる部分、ここも使いました。「口」には穴がありますから、そこに細工をして穴を塞ぎましてコールタールを塗ってしまうんです。これを使って屋根を菱葺きにしました。当時は「天地葺き」と言っていました。既にコールタールが塗ってあるから、「雨が漏らない」ってことで、垂木に直接釘で留めていました。

 これは自分たちで作るんではなくて、専門に売っているお店がありましたから、そこから買っていました。東京の小伝馬町に「金物通り」という所がありまして、そこにあった「村山」さんというお店が専門に扱っていましたので、よく買いに行きました。店先に開いたものがうず高く積んでありましたね。

 もとは石油缶ですから、開いたままの物は油だらけです。その油の付いた物と洗ってきれいにした物と2種類を売っておりました。油の付いた物は「トロ」と呼ばれてました。当然洗った物のほうが高いわけです。3銭から5銭ぐらい違ってたんじゃないでしょうか。

厚さは、重さ

 銅板はメーカーでは「やまいち」今の古河さん、それから住友さんでしたね。住友の板は「ねばり」がありました。ですから「打ち込み」や「打ち出し」にはほとんど住友の板を使っていました。ただ、色はあまりよくなかったですね。銅板はやはり、小伝馬町にありました「栗谷」「山崎」「市川」といったお店が扱っておりました。

 今のような長尺は勿論ありませんから、12巾×4尺( 363 mm×1203 mm)15巾×42寸(455mm×1273mm)2尺巾×42寸(606mm×1273mm)といったサイズの物でした。「山崎」さんでは「菊富士丸板」といって1尺×12寸( 303mm×363mm)の銅板を出しておりましたね。これは「瓦板」と言われていました。

 厚さは40目(め)、50目、60目、70目、80目とありました。70目は今で言う0. 5mmぐらい、80目で0.4mmといったところでしょうか。80目はほとんど使わなかったですね。厚さは重さで現していたんです。昔は圧延技術が良くありませんでしたから、一枚の板でも場所によって厚さが違っていたくらいですから、厚さを正確に表現することが出来なかったんで、だから目方で現していたんでしょうね。ですから、買う方も1枚、1枚手で持ってみて、重そうな銅板を買ったりしていました(笑い)。

銅板を厚くみせる

 中には銅板の裏に紙を張って厚くみせているような物もありました。誰が考えたのか分かりませんが、これは始末に終えませんでしたね。裏にすぐ水が入ってきてしまいますから。少しでもいい物に見せて高く売りたかったんでしょうが、今から考えるとひどい物でした。

 もっとも、私らのほうも現場に言って「銅板を少しでも重く見せろ」ってんで、重そうに運んだり、板を折る時も「厚いものを折っているように見せろ」なんて言われてましたから、どっちもどっちかも知れませんが……(笑い)。何とかごまかして儲けようとして
いたんでしょ。これも板金屋のテクニックです(笑い)。

(つづく)

2012/09/30(日) 00:00:00

「板金いま、むかし」ルーフネットで転載中。

kamoshita 東京駅
工事中の東京駅銅板屋根工事
(写真は記事と直接関係があるものではありません)

明治40年生まれの銅板屋根職人の鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の2回目。社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(かざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載した。

愛板
(画像をクリックすると拡大します)

 愛知県板金工業組合機関紙「愛板」第205号(昭和62年4月15日号)に、当時解体修復工事が行われていた旧名古屋高等裁判所銅板工事現場を訪問した東京都板銅屋根研究会メンバー19名のことが掲載されており、鴨下さんに関する記述もある。同紙によると旧名古屋高裁の工事を担当したのは岡崎の㈲高柳板金工業。元青年部長であった高柳一男氏が一行を現場に案内し、ハゼや材料の大きさ等を説明した。建物は大正11年に建設されたもので、板金工事で分からない部分も多かったそうだ。現場を見ながら、鴨下氏がいろいろと解説したようだ。「愛板」はその様子を次のように記している「東京では名高い銅錺師鴨下松五郎氏(88歳)の説明には聞き入るところがありました。聞けば東京の迎賓館も同じような施工がしてあるそうです」

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ②

ならし屋

 当時の銅板はとにかく「ひずみ」が多かったですね。買ってきてすぐの物でも、一方の角を押すと反対側の角が上がってしまう。そういう「デコボコ」の板でした。こんな板を使いますと、例えば「流し」などにすぐに水が溜ってしまいます。使いものにならないような奴でしたね。そういう物が正式に売られていました。

 仕事によっては、……この仕事は関東大震災直後にやったものですが……日本家屋の「ひとみ」、鴨居の大きいやつですね、それとその両側の柱に銅板を張る場合などはどうしても平らな物が必要になる。その時は「ならし屋」さんに頼みました。板を均して、平らにするのを専門に扱っていた所です。今の岩本町あたりにありまして、5人か6人職人さんがいました。

 これはすごい技術でした。板を置きまして叩くんですが、見ておりますと関係のない「あさって」のほうを叩くんです。とんでもない所を叩くんですが、板がスーッと平らになっちゃう。勿論「槌」の跡は付きますが、それは見事でしたね。技術とはこういうものだ
と思いました。

銅板は昔のほうが丈夫?

 それと長さの足りない板が多かったですね。巾は割合と正確なんですが、長さが4尺といっても一分ぐらい詰まっていたりとか。それと角が「矩(カネ)」(直角)になっていない銅板も多かったです。昔の板金屋は「差し金」は使っていませんでした。「竹尺」でしたから「矩」を見るのは銅板なんです。銅板で「矩」を見て、それから切っていきました。その時にもとの銅板がズレているととんでもないものが出来上がるわけです。これも困りましたね。折って張っていくうちに曲がってきちゃいます(笑い)。

 今の技術では信じられないのですが、そういう物が現在も出回っています,1ケース全部違っているようなこともあります。今は機械がいいですから銅板の寸法が多少違っていても、それなりに折れてしまいます。ですから葺く時に正確にズレて行きます。今の人は材料の寸法が違っているとは思ってもいませんから、葺き上げてみて「おかしいなあ」と思うぐらいかも知れませんが、気を付けたほうがいいと思います。

 ただ、銅板そのものは今より丈夫だった感じがします。今の銅板は、銅の成分が99.9……%という格好で、不純物をほとんど抜いてしまっていますが、昔の銅板は金や銀といった不純物を含んでいました。素人考えですが、私はそういう銅板のほうが屋根などの使った場合、丈夫なんじゃないかと思っています。勿論今は酸性雨とか大気汚染とかあり、銅板だけの理由で腐食するわけではないんですが……。湯島の天神さんなども100年以上たってますし、そういう古いものを見てきた実感ですね。

 もっとも、そういう銅としては少し不純な物を作ってもらおうと思っても、私ら板金の世界で使う銅の量など、電気やその他の世界から見ると微々たるものですから、難しいでしょうが。

下地と下葺きが大切

 銅板の世界では日光の東照宮とかが古い物としては有名ですが、板金屋にとって技術的に見るべきものはあまりないですね。結局、中国瓦と同じで∪、∩の板を並べていくだけですから。古い銅板の屋根を剥がして見たことも何回かありますが、ほとんど切りっぱなしです。技術的にはどうってことありません。

 ただ、下葺きはすごいですね。全て檜の「トントン葺き」です。安いのは「どうがえし」といって重ねの少ない方法…重ねが板の長さの半分ぐらい…を使っていましたが……。「トントン葺き」の重ねのところが板の長さの / ぐらい重ねていました。これだけでも50年、60年持つような感じですね。その上に銅板を葺いていくわけですから、ハゼを使わず重ねてやったって漏らないし、今でも持っているものが多いんです。水は確実に浸透していると思いますが、下葺きがいいので今まで持っていると考えています。

 東京近辺ではハゼのやり方で、「つかみ込み」と「切り子」があります。私に言わせりゃ、どちらでもいいんです。ハゼなんてものは、どちらにしろ穴だらけのものですから水は入ってきます。自分のいいと思ったやり方をすればいいんです。勾配が速ければ「つかみ込み」でも「切り子」でも水は入りませんが、勾配がのろくて雨量が多ければ水が浸透するのは当たり前。ですから屋根というのは漏るものだと思って下葺きに重点を置かなければ駄目です。

泥なまし

 少し話がずれましたが、銅板というのは非常に使い道が良い材料なんです。昔目黒に軍隊の火薬庫がありまして、その仕事を受けたことがあります。窓の縁を全部銅板で巻く仕事です。鉄は釘を含めて一切使ってはいけないんです。鉄は火が出ることが多いというわけです。金槌で打っても火花が出るぐらいですから、事故につながるということだったんでしょうね。釘も当然、銅鋲です。

 銅鋲では神田の「鋲定(びょうさだ)」さんでしたね。これは古いお店で、私らの子供じぶんからありました。今でもあります。今の判子を売っているような回転する箱がありまして、その中に鋲が入っていました。小学校に行っているときなんか、親父に随分買いに行かされました。この箱は今でも「鋲定」さんに置いてあります。

 銅板は高いですから、普通の人ではなかなか使えないんです。そういう材料ですから、屋根から剥がした物も再利用してました。その時は「泥なまし」というやり方をしてました。正しくは「泥塩なまし」と言っていたかもしれませんが、職人は「泥なまし」と言ってました。昔の人は良く考えたと思いますが、泥1升に塩を同じく1升混ぜまして、それを銅板に塗ります。その銅板を火の中に.放り込むわけです。塩気があるからきれいになるのだろうと考えたのでしようかね。つまり「なます」のなら少しでも銅板をきれいにしようとしたんでしょうね。

 火から出しまして塩と泥を洗うと色はきれいになっていました。そして「四すみ」を切りまして、また屋根に張っていきました。

(つづく)

2012/10/08(土) 00:00:00

銅餝師(どうかざりし)鴨下松五郎さんのはなし

京都府庁

京都府庁旧本館
京都府庁旧本館(重文)の美しい銅板屋根
(撮影:ルーフィングジャーナリスト佐藤孝一)本文と直接の関係はありません)

ほぼ週刊ウェブマガジン「ルーフネット」第118号の連載読み物は、明治40年生まれの銅板屋根職人の鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の3回目です。社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(かざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載しました。

今回の話題は1950年生まれの記者には懐かしいものです。小学校に上がる前、当時の町屋では杉板の塀やトタン屋根にコールタールを、ペンキ感覚で塗っていました。ハシッコイ子どもは鉄くずを集めて「クズ屋」に売り、駄菓子を買う資金にしていました。銅板は「あか」と言って高級品でした。父親は「うちのトユはあか(銅)を使うてるんや」と自慢していましたし、寺の樋が盗まれた、といった話も聞きました。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ③

あか板、くろ板、銅板……

 高いと言えば、昔は手間より材料が高い時代でしたから、職人さんが材料を懐に入れちゃうことが結構ありました。銅板は特に高いですから、うちの若い者がある時に銅板を細く切りまして、お腹に巻いて逃げちゃったんです。まあ泥棒です(笑い)。逃げ切れればよかったんでしょうが、警察に捕まっちゃったんです。うちの親父が警察に呼ばれまして、職人は「あか(赤板)」と言ったんですが、親父は銅板と言った。そしたら警察では「どっちなのだ?」「それとも両方やったのか」となって、怒りだしてしまった。同じものだって説明しても「お前達はそういう二つ言葉を使うから駄目なんだ」とかなんとか、親父は困っちゃったらしいですよ。銅板のことは私ら「くろ(黒板)」とも言っていましたから、そう言ったらどうなってたんでしょうね(笑い)。

鉄は毒じゃない

 材料では他に、すず引きのブリキ、亜鉛鉄板などがありました。それと戦後すぐはジュラルミンが出回った。物がなかったので飛行機で使っていたジュラルミンが大量に出てきたので飛びついたんですが、これがどうにも硬くて、なましたって、何したってどうにも使えない、困りましたね。いろんな材料を使ってきましたが、苦労はさせられました。こういう面では、今は有り難いですね。

 まずブリキは、今の厩橋のあたりに、専門で扱っているお店が5軒か6軒あったと思います。新聞の一面に当たる大きさのものが「2枚がけ」、二面の大きに当たるのを「4枚がけ」と呼んで売ってました。私らのほうは「2枚がけ」何枚、「4枚がけ」何枚といって買ったものです。「2枚がけ」は小さいですから、あまり使い道はありませんので、「4枚がけ」をよく買いに行きました。

 何を作っていたかと言いますと、お弁当屋さんの味噌汁入れなどです。当時はお弁当屋さんが、車を引いて売り歩いていたのですが、味噌汁も缶に入れて持ち歩いていた。その味噌汁入れを作るには、亜鉛引きのトタン板では駄目なんです。トタンはすぐハンダが切れちゃいますから。その点すず引きはハンダはとれません。こういう缶を「4枚がけ」でよく作りました。

 ハンダは良く付くのですが、そのかわりブリキはトタンに比べて錆びるんですよ。味噌汁は塩そのものですからね。そうするとどうなるかと言うと、弁当屋は「鉄をわざわざ飲む奴もいるんだから大丈夫だ」「鉄は毒じゃない」ってね。毒じゃないっても錆びが出ればね……もっとも飲む方も「鉄は毒じゃない」なんて言って飲んでましたがね(笑い)。

鴨下さん困るよ……

 ブリキもそうですが、亜鉛鉄板も輸入物が多かったですね。「英板」「米板」と呼んでいました。これが硬いんですよ。ハゼをつぶす時にソーッとつぶさないと折れてしまう。そこでね「つかみ」をもって材料屋さんにいくわけ。試しにつかんでみて折れないやつを買ってくるんです(笑い)。材料屋さんも困っちゃいますよ。売れなくなりますから。ですから「鴨下さん困るよ……」となります。当たり前です(笑い)。そういう迷惑をかけたお店が金物通りの「紀繁」さんや浅草橋にあった「佐野」さんです。

 亜鉛鉄板の厚さは「8枚割」「10枚割」とか呼んでいました。これも銅板と同じで目方からきている表現です。一つの梱包に何枚入っているかで厚みを現わしていました。「8枚割」は 8番、0.5mmですか。そういう物を使ってストーブの煙突なんかを作りました。暮れに入りますと注文が多くなりますから、ガンガンやってました。当然近所じゃうるさいから文句を言ってきます。ところが当時の職人は乱暴でしたから、グズグズ言われるとね「てめえら後から来やがったんだろ」って、夜中でも遠慮なしにやるわけ(笑い)。ご近所はたまったものじゃありません。

 それから米板で「アポロ」という製品がありました。これはいい物でしたね。メッキが厚くて、表面がきれいで鏡みたいな板でした。 8番以上だったと思います。これは「流し」などによく使いましたが、最高級品という感じでしたから、どうしても使わなければいけない時にしか使えませんでした。

ハンダの付かない亜鉛鉄板

 これは戦後だいぶ経ってからの話なのですが、あるメーカーの亜鉛鉄板でハンダが付かなくなっちゃったんです。板金屋としてはハンダの付かない亜鉛鉄板では仕事になりません。亜鉛が寄ってしまうのです。メーカーさんに困るということを申し上げたら、一度工場に来てほしいということで、組合の人と一緒に行きました。「お宅の板はこうです」と現物を見せて「ハンダが付くような物をこさえてほしい」と申し上げました。最初は「こんなことが……」ってメーカーさんの方では半信半疑の感じでしたが、「申し訳ないが我々の業者はハンダの付かないものは使えない」って色々申し上げたんです。そうしたら工場を見て気がついたことがあったら指摘してほしいと言うので、工場を見せていただきました。

 めっきをする前に板を洗浄する際に、相当枚数を重ねて槽の中に入れて洗っておりました。板は密着しているので相当時間をかけないとちゃんと洗浄出来ていないような感じでしたので、「めっきの表面はきれいなのだから、原因はそこじゃないですか」そう申し上げたんです。

 後から「ご趣旨に添えるような製品にしました、ありがとうございました」とお礼が来ました。勿論ハンダは付くようになっていました。

コールタールを雑巾で塗る

 あとはお世話になった材料は、何といってもコールタールですね。これは丈夫なもので、非常に役に立ちました。いまでも山梨あたりでコールタールを塗った屋根が残っています。50年、60年たったものですが、鉄板の方は錆びていて叩けばパリッと折れてしまうような感じですが、コールタールで屋根として持っている。

 昔の板金屋の「小僧」はいつもコールタールの缶と七輪を腰にぶら下げて歩いていました。それほど良く使った材料です。ただ恰好は悪かったですね(笑い)。昔の職人さんにはすごい人がいました。コールタールは普通刷毛で塗るものですが、刷毛よりも雑巾の方が速いって雑巾で塗っていた職人がいたそうです。1日に100坪塗ったといいますから、そりゃ速いです。しかしこれはたまらないですよ。コールタールの中に手を突っ込むのですから……。

 そのコールタールは今の日本橋の本町にあった「熊野屋」さんに買いに行きました。東京では一番の塗料屋さんでしたね。それこそ何でもありました。

地の粉

 雨漏りがしたら張り替えればいいのだけれども、材料が高いので簡単には出来ません。今ならシーリングで良いものがありますが、当時はそんなものはなかった。どうしてかと言うと「地の粉」というのがあって、これをコールタールと適度に混ぜたものを使っていました。

 これを混ぜるのがやっかいなんです。「面倒くさい」って一度に入れると、掻き回せなくなっちゃう。少しずつ調合しながら入れていくのですが、夏の時期ならばポタッと垂れない程度とか、練り具合の感じが難しい。その出来具合で職人の腕が分かるとも言われてました。時にはあと少しで出来上がりとなるとき、ちょうど粉が無くなってしまう。困まっちゃて、その辺の泥を入れてごまかしたり、とか色々ありました。

 その「地の粉」を混ぜたものを布に浸み込ませて雨漏りの箇所に置き、その上にコールタールを塗って補修していました。雨漏りを止める材料は、これしかありませんでした。そのかわり良く止まりました。

 「地の粉」を塗る時使う布は、着古した浴衣を細長く裂いて作り、包帯のような感じで巻いておきます。布地ですから裂いたときに多少ケバ立ちます。これを火で焼いて滑らかにしておりました。ケバ立っていると屋根に貼った後そこからめくれてきちゃうんで
す。これも「小僧」の仕事で、仕事から返ってきたあと夜業(よなべ)で作ってました。今はこんなとぼけた仕事はありませんね。

 それと、麻の紐をばらして「地の粉」に混ぜていました。これは土壁の泥にワラを入れるのと同じで、「地の粉」が割れるのを防ぐという話しでした。実際に効果があったか、どうだか分かりませんが(笑い)。「地の粉」もあまり厚く塗っちゃいけない。適度に塗って貼付て、その上にコールタールを塗って、補修した箇所を分からないようにしてました。

(つづく)

2012/10/15(月) 09:49:00|屋根|

板金屋根の防水は「地の粉」と「洋チャン」で

「洋チャン」と「飛ばし油」を練って防水するはなし。

深川不動尊
深川不動尊の見事な銅板屋根。撮影:佐藤孝一(F Zuiko38㎜/ 1.8 OMD)
(写真は本文と直接関係するものではありません。)

ルーフネット119号の、連載読み物は、明治40年生まれの銅板屋根職人の鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の4回目です。118号では、板金屋根の防水に地の粉(じのこ)とコールタールを混ぜて使う、という話がありました。今回は松屋ヤニに油を混ぜて漏れ止めにします。油は「とばし油」と言っていた今でいう菜種油。松ヤニは日本の物方がいいのだが、採れる量が少ないから輸入ものを使うのだがこれを「洋ちゃん」と呼んでいたそうです。洋物の「チャン」ということでしょうね。「チャン」は「瀝青」を指すのですが、一般的にはタールや、樹脂あったり、ヤニであったり。そんな話は、聖書と防水で何度も出てきました。では「洋ちゃん」の話をお楽しみに。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ④

「洋ちゃん」

 漏り止めには、もう一つ松やにを油に混ぜたものを使っていました。油は何でもよかったと思いますが、当時は「とばし油」と言ってたと思いますが、今でいう菜種油を使ってました。松やには日本の物の方が品質がいいんですが、採れる量が少ないので高い。そこで輸入したものを使ってました。「洋ちゃん」と呼んでましたね。西洋ものという意味だったんでしょうね。これもさっきの「地の粉」と同じで練り具合が難しい。

 これは看板の足元なんかに使いましたね。足元のところに流し込むんです。そうすると、油が入っていますから芯まで固まらないのです。固まらないから看板が動いても、その動きに追随して水の浸透を防げるという仕組みでした。

銅板の屋根には「地の粉」を使えませんでしたので、これを温めて薄く伸ばしたものを塗っていました。この時は刷毛でなく雑巾を使っていたように思いますね。

 銅板に何か塗るといえば、銅板の艶がなくなるとまずいってんで、昔の板金屋の中には、「そんなことやっちゃ駄目だ」って言ったんですが、黒砂糖を薄めて塗った人がいました。そりゃテカテカ光って具合はよかったですよ。しかし、虫がついちゃって……(笑い)。こんな馬鹿な仕事をね、馬鹿と思わずやってたんですよ。ただ、この人は馬鹿でなく研究家なんです。どうしたら銅板がきれいになるかと考えていたんでしょうね。それまでの技術を脱皮しよう、脱皮しようとしていたと思います。今から考えると馬鹿な仕事ですが、こういう人のほうが研究心があったように思えますね。

 お話しした「地の粉」も「洋ちゃん」も東京の田端にある「浅井工業薬品」さんにいけば今でも手に入ります。

「ぶったくり」

 今では道具というのはどこでも買えますが、私らのじぶんは何と言っても神田の「久光」さんでした。現在の機械屋さんや工具屋さんで「久光」さんの出身というところが結構あります。そこで売っている道具は、切れ味が良くてね。職人が使って使い良いものでした。薄刃でもなんでも非常にいいものを出していました。ただ、注文してから手に入るのに3ヵ月くらいかかりました。「房州」の方で作らせたと聞いてます。値段もほかの店の3倍ぐらいはしてましたが、それだけ価値のあるものでしたね。

 寸法とりは「ぶったくり」と言いまして、長いものを持って行って現場で寸法に合わせて切ってくるやり方をしてました。これは絶対に間違いがなかったですね。「ぶったくり」とか「あてさし」と呼んでました。

 寸法をとろうとしても正確に計れなかったり、寸法の読み間違えが多かったんでしょうね。そもそも昔は字が読めなかったり、書けない職人さんが多かった。うちの親父の兄弟分に「牧野茂八」という人がおりましたが、この人は名人なんですが字が書けなかった。そこで二つ、三つの寸法は「飲み込む」と言ってました。寸法を自分の眼で見て覚えちゃったと言うんです。それで通称「飲込みの茂八」って言われてました。でもね、三つぐらいまでは何とか覚えられるんですが、四つ、五つになると覚えられなくなっちゃって(笑い)……どうしても間違いが起きる。ですから、それから先は「ぶったくり」専門です。

 寸法の関係で言えば展開図。これはうちの親父が若いじぶんに「洋行帰りの山田さん」に教わったと言ってました。その山田某さんは洋行して展開図のやり方を勉強してきたという話でしたが、おそらく洋行なんかしちゃいない(笑い)。洋行はしていないが、そういう知識を持った人がいたことは間違いない。ただ、展開図は好い加減なものを引いたんでは合いっこないし、私らは実際の仕事では展開図はほとんど使いませんでしたね。

マン・チョウ・ミイ

 材料の話はこの辺にしておいて、次は仕事の方のお話をしましょうか。昔は板金屋にも符丁(ふちょう)があったんですよ。どういうものかと言いますと……ダイ(1)ジョウ( )マン( )キイ(4)ミイ(5)セイ(6)チョウ(7)キュウ(8)エイ(9)そして10はダイにもどる、といったものです。

 親父によると、明治の終わり頃の東京の板金屋の手間が1 日、 7銭5厘だったそうです。これを符丁で言うと「マン・チョウ・ミイ」となるわけです。これが関東大震災(大正1 年)頃になりますと1円から1円50銭ぐらいになってました。屋根の張り手間が請負で1坪当たり40銭から50銭ぐらい。当時は18歳ぐらいでしたが、自分で言うのも何ですが結構いい手間を取ってましたね。

 例えば二人で1日に 4坪葺いたことがあります。20歳前ぐらいのころだと思いますが、この時は鰹節で有名な「ニンベン」の営業所の屋根の仕事で、屋根は一文字葺きでした。たしか 9番(0. 5mm)の3×6板の四つ切りだったと思います。ハゼは「切り子」です。普通は0. 7mmをよく使ってましたから、当時としては厚いものを使った仕事でした。これを朝の7時頃から現場に行って材料を切ることから初めて、それを折って、屋根に張っていったわけです。

 一緒にやったのは小松川の奴でした。腕自慢の奴でしたので「張りっこしよう」って。屋根を張る競争をするわけですからお互いに相手を「煽ってやろう」というん感じで張っていきました。 9番を2枚いっぺんに折ったり、板を切る時も「はさみ」だって動かさずに、板に「はさみ」をクッと入れてそのまま強引に押していって切っちゃいました。それだけ力もあったんでしょうね。

材木が縮む、銅板が縮む

 少し手間の話をしますと、樋の「あんこう」は一個で樋1間分の値段を取ってましたね。それと小田原の「切り鬼」というものがありますが、これを一人で作ると1個、5円ぐらいになりました。手間が1円50銭の頃でしたから結構なお金です。「切り鬼」の作り方は、うちに4~5人小田原から手伝いにきてくれていた人がいまして、その人達に教わりました。

 この仕事が関東大震災後東京でもかなり多くなりまして、それで仕事から帰ってきて夜業(よなべ)に1日に1個ぐらいこさえました。若いじぶんでしたから、さんざん仕事をしてきた後の夜業も平気でした。そんなわけで「切り鬼」には随分稼がせて貰いましたし、鬼のデザインを変えたりとか作ることも楽しみでした。

 看板とか戸袋の什事もよくやりました。看板は今で言う既成品のような物がありまして、それを売っていました。金物通りの「村山」さんの隣に看板屋さんがありまして、そこから木彫りの看板に銅板を張る仕事をよく頼まれました。昔はこういう看板でいいものがありましたね。子供じぶんからよく見せに連れていかれたのは、本郷3丁目の四つ角にあった下駄屋さんの看板です。この看板には大きな下駄を銅板で張ってありました。下駄の鼻緒はだんだん太くなるでしょ、それを銅板で実に見事に張ってありました。名前は忘れてしまいましたが、当時の名人が張った仕事というので、よく見に行きました。

 「ひとみ」や戸袋を銅板で張る仕事がやはり関東大震災後多くなったのですが、「ひとみ」の場合大きいですから銅板一枚の幅では足りない。そこで、裏から幅 0mmでテープを貼るようにハンダ付けていきました。表からは一枚の銅板で仕上げたように見せるわけです。ただ、銅板には伸縮がありますから、あとで切れちゃうことがあります。

 昔の人は伸縮なんか全然考えていませんから「板が縮む」と言っていました。材木が縮むことで銅板が切れるという理屈です。うちの親父なんかも大工さんに向かって「古材屋に行って古い板を買ってきて、それでやってくれないと皺が出ちゃう」なんて言ってました。板金屋は木が縮むことは知っていましたが、金気(かなけ)の物が伸び縮みするなんて思ってもいなかったから、銅板が切れたとなると「古い木を使わないからこうなっちゃった」とか言って、大工さんに責任を押しつけて威張ってました。もっとも大工さんも銅板が伸縮することなんか知りませんから「それは申し訳ない」なんて謝ってましたね(笑い)。

(つづく)

2012/10/30(火) 09:49:00|屋根|

げんこつで叩きこまれた段取りと心がまえ。

画像の説明

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横浜市開港記念会館の時計塔は、「ジャックの塔」の愛称で親しまれ、高さ36メートル。このシンボル以上に銅板屋根は美しい。(写真は本文と直接関係はありません)。

※ ※ ※

今回の連載読み物は、明治生まれの銅板屋根職人・鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の5回目。社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載です。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(どうかざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載しました。

「台八車に提灯着け、道具箱、七輪、コールタールの缶、弁当箱なんか乗せて仕事に行った(行かされた)」鴨下さんが、親父の「げんこつ」で叩き込まれた「段取りと心構え」を語ります。「野中の一本杉だって大地があるから立ってられるんだ」。現場の火の用心。戦後の、ゆすりタカリまがいの奉賀帳ではない、自発的互助システムとして機能していた、「奉賀帳」で助かった話。などなど。鴨下講談、絶好調です。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ⑤

鴨下松五郎氏。1907年(明治40年)生まれ。(故人・平成13年4月14日逝去)勲六等単光旭日章。現代の名工。日本銅センター章など受章。

貸し車屋

 私は二代目なんです。一人っ子なんで親父の後を継がざるを得ませんでした。親父は二十歳ぐらいでこの什事に入りましたが、若いじぶんはすごかったみたいですよ。今で言う暴走族みたいなもんでしょうね。日本橋の馬喰町に住んでいたんですが、喧嘩で毎週のように久松警察のお世話になっていたようです。(笑い)。

 皇居の「御(み)車寄せ」と言うんでしょうか、玄関の屋根の仕事を親父がやりに行った時などは、当時のことですから職人一人一人に監視のために役人が付いたそうです。七輪にも役人が一人付いた。結構元気な親父でしたから(笑い)何か気に入らないことでもあったんでしょうね、その七輪に付いた役人を「この野郎屋根に上げてしまおう」と思って、七輪を持って屋根に上がったら、本当に屋根まで付いてきたそうです(笑い)。

 その代わりといっちゃあなんですが、子供の躾には厳しかったですね。それこそ箸の上げ降ろしから何板金いま、むかしから……うるさかったですね。すぐ「げんこつ」です。

小学校5年の夏休みから、車を引いて仕事に出されました。それでいて何かあると「げんこつ」がすぐに飛んでくる。まあ、それで仕事を覚えたようなもんですが。

 当時板金屋が使っていた車というのは、今魚河岸で使っているような荷車です。荷台の下に車輪が付いていて、引っ張る恰好のものです。これを自分で持っている人は少なかったですね。どうするかと言いますと、貸し車屋というのがあって、今で言うレンタカーなんでしょうが、そこに借りに行くわけです。一日10銭ぐらいじゃなかったでしょうか。仕事の当日借りにいったんでは出払っていることもありますから、使う時は必ず前の日に頼みに行きました。
 こういう車に提灯を付けて、道具箱、七輪、コールタールの缶、弁当箱なんか乗せて仕事に行きました。勿論乗せていく物も前日に用意しておきます。うちの親父はこの辺もうるさくて、道具箱に入れた「はさみ」などの道具の種類と数を紙に書かされました。何を持って行ったか分るようにしていたんでしょうね。

親父の教育

 小学生のころだったと思いますが、品川に仕事(東海寺)がありまして馬喰町から車を引いて行かされたことがありました。今のようにアスファルトの道じゃないので大変でしたね。親父から10銭もらって行くんですが、京橋まで来ると屋台の焼き大福屋がありましてね。そこまで来るとお腹が減っちゃって、もらった10銭でよく買いました。その焼き大福も大きさが色々あって、初めは大きいほうがいいと思って買ったら「塩あん」なんです。(笑い)。

 それで4時ぐらいになると「もう帰んな」ということで、また10銭もらって車に空の弁当箱なんか乗せて品川から馬喰町まで引いて帰ってくる。そんな生活でしたね。

 うちの親父は現場で3時になると、散らかっている道具をいったん全部集めさせていました。その後仕事をするには、使う道具だけでそこから持っていくわけです。これはたとえ道具を忘れてもその時持っていったものだけですむ、ということです。そういう用心をしていましたね。

 それと火にもやかましかった。「3時すぎたら煙草はすっちゃいけない」とかね。七輪の炭も水をかけたくらいじゃ、ちゃんと消えない。昔の炭は今と違っていい炭でしたから、ちゃんと消さないとまた火がおきてしまう。京橋の永井さんていう人が、消したと思って七輪を持って電車に乗ったら、車内で炭がおきて車掌に怒られた(笑い)……そんな話もあるくらいですから。ですから七輪の火を消すときは、水を張ったバケツを用意しておきまして、その中に七輪を突っ込んで帰ってくる、そういう教育を親父はしていましたね。

「小僧」さんに対してもね。昔の「小僧」は「腹掛け」を着ていましたが、そこに時計を入れる小さなポケットのようなものが付いています。そこに「これは出しちゃいけないよ」と言って、1円ずつ入れて持たせてました。これは「迷子になったり、うちに帰れなくなった時に、このお金で電車で帰ってくるんだよ」ということです。

 電車に乗って仕事に行くこともあるんですが、その時も朝6時までに乗るんです。何故かというと、普通は運賃は7銭ですが6時……7時だったかも知れません……までに乗ると6銭ですむ。早朝割引きです。ですから、それまでに乗らないと損をするってわけ(笑い)。

 この電車に乗るときも6銭なら6銭をバラ銭で「小僧」に持たせるんです。当時は電車の中でお金を払ってましたが、財布からお金を出して払うなんてとんでもないという。私も電車の中で財布を出して張った倒されました(笑い)。何でかと言いますと「バラ銭で持っていれば落としてもそれだけだ」って言うんです。細かいというか、しっかりしているというか(笑い)。もっともそのじぶんは、今と違って皆ポーッとしてましたからしょっちゅう財布を落とすんですよ(笑い)。

義理と「げんこつ」

 昔の職人の世界は義理堅い世界でしたが、うちの親父は特にその傾向が強かったというか、横のつながりを大事にしてましたね。「奉賀帳」なんかも随分やってました。例えば「小田原の誰某がこういうことでちょっと寝てるから、心配してやってくれないか」って声がかかると、よく自分で歩いて回ってました。それで何十円かまとめて、その人に渡してた。親父は若いときに腰が抜けちゃったことがあるんです。脚気のひどいやつだったと聞いてますが、その時に自分に兄弟には一銭の世話にもならず「奉賀帳」で全部済ませたというんです。それが頭にあるから余計、何かあったらお返ししたいってんでやったらしいです。

 若いじぶんの親父は乱暴だったんですが、仕事のほうはしっかりしてましたから、当時の職人としては儲けたほうじゃないですか。1 日と晦日になると蔵前に今でもある「町田糸店」の隣にあった貯蔵銀行というのがありまして、そこに私をつれて必ず預金に行ってましたから。なぜ馬喰町から蔵前の銀行まで預けに行ったかというと、近所の銀行ですと回りから「職人のくせにお金を預けに行った」と言われちゃうわけ(笑い)。それが嫌だったらしい。

 余談になりますが、私が1 歳か1 歳の頃、その貯蔵銀行が危ないという話しになった。浅草の「今半」の隣にあった十五銀行が潰れたことで取付け騒ぎがおきた。「大変だ」ってんで夜中の2時に親父と二人で行きましたよ。寒い時でしたので「刺し子」を着てね。銀行のほうではお客を安心させようと窓口にお金を積み上げてました。それで夜中の2時でもお金を払ってくれました。みんな殺気立ってましたから、そうでもしないと「たった殺されちゃう」ような雰囲気でしたね。

 そういう感じで仕事に関しては見習う点が親父には多かったんですが、普段はそりゃ人権もへったくりもありませんよ(笑い)。二言目には「げんこつ」でしたから、今なら殺されちゃったんじゃないでしょうか。

 その親父も腎臓を悪くして私が19歳の時に寝込んじゃっいました。寝込んでも口だけは達者でしたが、仕事は出来ない。ですから19の時から一本立ちです。当時うちにはたくさん職人……「おさむらい」……がおりましたが、若いながらも何とか使いこなしましたね。当時の職人は結構大変な人……お酒はよく飲むし、取るものより使うものが多いんでしょ、それでいて威張ってる(笑い)……が多かった。そういう人達を使いこなせたというのは結局、普通の人より仕事が出来たということでしょうね。そのじぶんは、何かっていうと「これ(腕)だぞ」「これはどうだ」という感じで、仕事が出来なかったら言うことなんか聞いてくれない世界でしたから。

  0歳の時に親父が死んでしまった。ちょうどその時は入営しており台湾(花蓮)にいました。休暇をもらって帰ってきてお弔いを済ませたんですが、翌日すぐに戻らなければいけない。この時はうちのこととか心配で戻るのがつらかったですね。でもね。職人や回りの人がうちを守ってくれたんです。仕事が出来るとかなんとか言っても結局、自分だけじゃ駄目なんです。「俺は野中の一本杉だ」って言う人がいます

けど、それは間違いで、野中の一本杉だって大地があるから立っていられんです。組合でもなんでも同じですが、みんなが寄って初めてやっていけるんで、自分一人でやっていけると思っちゃいけません。

(つづく)

2012/11/07(水) 09:49:00|屋根|

どんぶり勘定。実は懐の深い合理的システムだった。

画像の説明
完成間近の東京駅。ピカピカの銅板が眩しかったですね。(写真は本記事と直接関係はありません)

※ ※ ※

ルーフネット121号連載読み物、今回は明治生まれの銅板屋根職人・鴨下松五郎さんへのインタビュー記録の6回目です。社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載です。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(どうかざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載しました。

ヌケた振りした材料の売り手の太っ腹、町場と野丁場の仕事ぶりといがみ合い。「どんぶり勘定」の基本は手間、材料、風袋(ふうたい)=経費。この三つがそれぞれ三分の一ずつ…などなど、粋な人心掌握術がありました。現場の見かけの効率だけを評価する近年のビジネスモデルとは一味もふた味も違う、懐意の深いシステムが現場で機能していた。 なにより驚くのは」鴨下さんの記憶力。 各業界にこういう人が一人はいるようですね。鴨下節引き続き好調です。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ⑥

坪何枚いるんだい?

 当時の屋根の板金工事は今で言う建築金物の業者から私等は受けてましたね。建築金物の業者が屋根の仕事も一緒に受けて、それを板金屋に流してくれる恰好になってました。昔、千住に「おばけ煙突」という4本煙突で有名な建物がありましたが、あれは火力発電所なんです。その火力発電所が千住に移る前に蔵前にありました。蔵前の時は3本煙突だったと思いますが、その屋根の仕事を神田にあった「やまじょう・高田屋」さんが受けて、私等が仕事をやりに行きました。その高田屋さんの人は「あんさく」とみんなに呼ばれてました。「あんさく」って何かって言うと「按摩のさくさん」だと……つまり仕事が見えないというわけです。今なら材料は一坪当たり何枚必要か、ということは仕事を出す方も分かっています。しかし当時は何枚必要かよく分らなかったんです。前にもお話しましたが手間が安かったもんですから、材料を懐に入れちゃってそれで「足らないよ」って言うと、「あんさく」さんはすぐに持ってきてくれたそうです(笑い)。それでも儲かったと言ってた。もっともこれは裏を返せば、太腹で上手に人を使ったということでしょうね。職人さんのほうが「あんさく」だったかもしれません。

 もっとも板金屋のほうでも、例えば銅板の屋根です一坪で10枚か11枚あれば葺けるわけです。役物がいるから1枚ぐらいは余計に見ておきますが……、それを「1 枚なければ出来ない」なんて平気で言ってました(笑い)。こんなとぼけたことが通った時代でした。

町場、野丁場

 少し大きな仕事になりますと、今より義理堅い世界でしたから「あそこでやってる仕事だから応援しよう」ってことで、非常にうまく仕事をこなしてましたね。当時の町場の板金屋は親父と伜、あと職人か「小僧」が一人か二人という規模がほとんどでした。大きいところで親方を入れて5、6人でしたから、協力し合わないとちょっと大きな仕事になると出来ません。人間が10人いれば、はっきりいって野丁場です。

 当時も町場と野丁場の人達はあまり仲が良くありませんでした(笑い)。町場は町場で固まって、野丁場同士で固まって……野丁場の中でも仲のいい人、悪い人がいるって感じでした。町場のほうでは「野丁場なんて奴等は……」って、「かたき」のように思ってましたが、今では私のところも野丁場みたいになっちゃいましたがね(笑い)。

 昔も材料の仕入れ値は町場と野丁場は違ってました。私等は5枚、10枚という単位で買っているんですから、彼らとは当然値段が違ってた。ですから町場の業者は大きい屋根……100坪あると大変大きな屋根でしたが……そういう仕事には手が出ませんでした。

 「清水」さんに出入りしていた関係で、一度大きな倉庫の仕事をしないかと言われて、見積を入れたことがあります。私としては一番安い手間と材料で計算して出したんですが、野丁場のほうから出て来た値段は、私のほうの材料代だけの価格でした。競争にも何もなりません。それで「いくら贔屓にしてもらっても材料代だけでは出来ません」って、お断りしました。これなんか一つの例ですね。仕事の上手い下手では、はっきりいって町場のほうが上手でしたね。だから町場の人間は野丁場の仕事を見て「こんな仕事をしやがって」なんて言ってました。しかしこれは無理な話しなんでず。野丁場は速く仕事をあげようとしてますから。グズグズした仕事は出来ないわけですから。

どんぶり勘定

 見積をする時は、材料とか手間を拾っていくんですが、不思議と「どんぶり勘定」と合っちゃうんです。手間、材料、風袋(ふうたい)ようするに経費ですね。この三つがそれぞれ三分の一ずつというのが、「どんぶり勘定」の基本です。残りの一割は、難しい仕事だと手間に食い、材料の良いものを使うと材料に食いという形になりますから、3割は残さなければいけない、という考え方です。親父なんかも3割は抜かなければいけない、と言ってました。

 ですから仕事は「どんぶり勘定」でも大きな間違いは起こらないんです。ただ、使い方が「どんぶり勘定」になると、おかしくなっちゃうんです。仕事での計算は「どんぶり」でも合いますが、使い方が……私生活で「どんぶり」をしたりすると、そういう人はだいたい失敗してますね。仕事を取ったとなると前祝いをしちゃう人もいました(笑い)。儲かるかどうか分からないうちに前祝いという気分になっちゃって、お金を貰えないうちから、道具を買うとか、飲んじゃったりする。それで材料代が払えなくなったりして、いなくなっちゃった人も結構いました。遊びは誰だって面白いわけ。誰だってやりたいんですが、限度がある。限度を超すとお店を仕舞ってどこかに行ってしまうことになる。「あいつは街遊びは上手いけど、仕事はまずい」なんて言われちゃうわけ(笑い)。ですから材料屋さんのほうでも、売掛の枚数を板金屋ごとに細かく決めてました。例えば 0枚しか貸してはいけない板金屋が「 枚必要だ」となると、「お前さん気を付けてくれよ」とはっきり言われます。それだけの用心はしますよ。

 そういう人でも腕が良ければ「わたり」職人として生きていけました。3日ばかり稼いで、また次にいくという恰好で日本中を渡って歩いている。彼らは腕はいいです。腕が良くなければ使ってもらえませんからね。腕はいいが身持ちは悪い(笑い)。本当にど
うしょうもない人がいましたね。

 うちにも「お隠れ銀次」ってあだ名で呼ばれていた「わたり」職人がいましたが、名前の通りすぐいなくなっちゃうんです。いなくなるだけならいいんですが、ある時「銅金で働いている」と言って相手を信用させておいて、さんざん飲み食いして逃げちゃった。それでまた警察です(笑い)。警察に呼び出されて「お前のところは、どうしてそういう悪い奴ばかりいるんだ」……となる。「どうして」と言われても、それこそ困っちゃいます(笑い)。今から考えるとすごい職人が多かった、というのが実感ですね。

(つづく)

お店(たな)と出入り職人の阿吽の呼吸

画像の説明

「お店へ買い出し」といっても商店街やデパートの「おみせ」に買い物に行くわけではない。「お店(おたな)」へ緊急援助を請うため、仕事をもらいに行くことである。広辞苑では「おたな(御店):奉公人や出入りの職人などがその商家を敬ってよぶ称」とある。「お店場」は「旦那場」ともいう。大辞林で「旦那場」を引くと「商人・職人などが得意先をいう語。「旦那筋」と解説している。鴨下さんの「お店場(おたなば)」は仕事が無くなった職人が「ここんところ具合が悪いから直させて下さい」とお願いに行くところであり「そうだね直していいよ」と発注してくれるところだ。次回の話は「お店」で出る「そば」の話や「印半纏の糸代」など。落語の世界そのままである。

今回の連載読み物は、明治生まれの銅板屋根職人・鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の7回目。社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載です。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(どうかざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載しました。聞き手は現広報委員長の大江源一さん(大江金属工業社長)です。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ⑦

「お店」へ買い出し

 今はなくなっちゃいましたが「お店場(おたなば)」とか「旦那場(だんなば)」という仕事の世界の話しもしておきましょうか。
 「お店場」という世界は簡単に説明すると、仕事が無くなるとね「買い出し」といって「お店(たな)」に行って「ここんところ具合が悪いから直さして下さい」と言う。そうすると「そうだね直していいよ」となる。それだけで仕事が貰えるんです。
 施主から直に仕事をもらう恰好なんですが、「お店」は板金屋だけでなく畳屋、庭師、経師屋……と色々な職人さんを抱えていた。そういう人達を絶えずそばにおいておく、ということに誇りを持っていたように思えます。出入りの職人には「はんてん」を配る。その「はんてん」を着ていけば、その家の人間のような顔をして「奥」だってどこだって入って行けました。正月前になると、勝手に職人達がやって来て襖を替えたり、畳を替えたりしていく。職人達が自分達で段取りをしてやってしまいます。そういう世界です。
 お金もさっきの「どんぶり勘定」でも文句を言わずにきちんと払ってくれる。ただ「どんぶり勘定」だから、その値段が「お店」にとって高かったかというと、そうでもなかったと思います。今のように間に他の業者が入りませんからね。
 そういういい場所があったから、職人も腕によりをかけていいものを作った。本当に仕事が無くなれば、それこそ庭掃除にでも行く。そうすると、その日の日当と三度の御飯が食べられる。そこまで「お店」が面倒を見てくれるわけですから、職人も念入りに仕事をします。

蕎麦二枚

 うちの親父なんか、ある「お店」に仕事をしに行っているとするでしょ。お昼になると別の「お店」に御飯のおかずを見に行くんです。おかずがいいと仕事もしていないのに別の「お店」に御飯を食べに行っちゃう(笑い)。私が「仕事もしていないのに」なんて言うと、「仕事なんてなくてもいいんだよ。おかずは向こうがいいから」って、4、5人自分のところの職人を連れて食べに行く。「お店」のほうも「ご苦労さん」なんて感じで当り前のように食べさしてくれる(笑い)。お店によっては「1」と「6」の日には、必ずお酒を出してくれるところがありました。お勝手に鏡を抜いた樽が置いてあって自由飲めるようになっている。当然のように「ありがとうございます」です(笑い)。
 そのかわり風が吹いたとか、近所に火事があったとなると職人はみんな手伝いに行きました。大晦日には「立番」をしてお客の荷物を預かったりして、夜中の2時頃までお勤めをする。
 昔は3時になると蕎麦が出されました。どういうわけか蕎麦は必ず2枚でしたね。煎餅なんか出てくると「四分板(しぶいた)なんか出しやがって」と職人は悪口を言うんですよ。じゃあ、その蕎麦を食べるかというと、お酒を飲む職人は「帰ってからの一杯がまずくなる」って食べない。それでもって出された蕎麦を残して帰るのも嫌なんです。勝手なもんです(笑い)。
 でどうなるかというと「小僧」に食べさせることになる。「小僧」だってそんなに沢山は食えませんが、「蕎麦は座った分(高さ)だけ食える」なんて言われました。一度親父に「どうして蕎麦は座った分だけ食えるのか」と聞いたんです。そしたら「蕎麦ってのは行儀がいいからスーッと縦に体のなかに入っていくんだ」(笑い)。そんなわけありませんよ。

糸代

 「はんてん」を戴く場合も「はんてん」に作ってくれる所と反物でくれる所がありました。反物の場合は必ず「糸代」といって2円とか3円付けてもらいました。「糸代」で付け加えると、芸者さんなんか呼んで遊ぶこともあったんですが、その時に今で言うチップをご祝儀として渡すと大きな金額を渡さなければいけませんし、自分だけ出すのは一緒にいる人にも失礼なものとされていました。だいたい職人は口が悪いですから、勝手にご祝儀なんか渡すと「あの野郎いい気になって祝儀なんか出して」となりますから。その時には「これはご祝儀ではありませんよ。糸代ですよ」と言って渡したもんです。
 私のじぶんには、「はんてん」を戴けるお店が30件ほどありました。1年に2枚くらい一つのお店から戴いてましたから、結構たまってしまいます。そうすると岩木町に「はんてん」の古着を専門に扱っているお店があったので、そこに売りに行きました。「はんてん」は丈夫なものですから、農家なんかの仕事着にもってこいなんで人気がありました。
 売る時には、背中の紋と襟地の字を替えたりとか気も使いました。やはりお店から戴いたものをそのまま売るのは気が引けます。もっとも、中には普通ではちょっと分からないところに番号を付けてある「はんてん」もありました。そんなものを知らずに売ってしまうと「鴨下が売った」って分かっちゃう(笑い)。
 この「はんてん」が戦後には随分お米に替わりました。私はまだ戦地にいたのですが、残った家族が農家に買い出しに行ってお米を譲ってもらう時に、お金だけでは駄目で「はんてん」を一枚付けないと売って貰えなかったそうです。

(つづく)

2012/11/14(水) 00:06:21|屋根|

職人の習い事

美人のお師匠さんの稽古場で先輩から行儀・礼儀作法を学んだ。

夜の東京駅
東京駅の真新しい銅板がライトアップの光を効果的に集める。向かいの丸ビル、新丸ビルのレストランの窓際の席は連日予約で満席。(2012.11.13。17時撮影)

「施工と管理」からの鴨下インタビュー転載は、今回で8回目。この回は技能ではなく職人の芸事・習い事の話。新内、小唄、清元…。職人達は稽古場で礼儀を学んだ。「これに合わせてカット写真は芸の仏様で行こう。ならば美しい伎芸天の秋篠寺!」と思ったが、残念ながら秋篠寺の屋根は瓦葺。伎芸上達を願うなら弁財天。三大弁財天といってもいろいろと説はある。でも竹生島、宮島、江ノ島の3つなら文句はないだろう。江戸の職人鴨下松五郎ならこの中では江ノ島だ。有名な裸弁財天を祀る六角堂の屋根は銅板葺き。やっと繋がった。今回はとりあえずの写真だけご紹介。今後素晴らしい銅板屋根コメンテーターの協力がえられることになったので、改めて、気合を入れて撮影し江島神社の屋根を紹介します。

画像の説明
江島神社六角堂の銅板屋根。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ⑧

忙しいから習えるお稽古ごと

 昔の職人は、清元なり新内なり小唄を習うという習慣がありました。宴会になると飲んだり、食ったりするだけではなく、三味線が必ず入りましたから何か唄わなきゃいけない。それでお稽古にかよう人が多かったし、そういう趣味を持っていた職人さんが沢山おりました。特に左官屋さんに多かったですね。うちの近所に銭湯があったんですが、私の子供の頃、そこに左官屋さんの唄自慢が集まっていました。お湯に入っているとそれはうるさいんです(笑い)。小唄でしたね。親父は「左官屋は暇だから」なんて言ってましたが、こういうお稽古ごとは、暇だから習えて、忙しいから習えないというものじゃないんです。忙しいからこそ習えるもんです。

 私も20歳のころから週に3回、仕事を何とかやり繰りして芳町のお師匠さんのところへ清元を習いに行くようになりました。芸事は礼儀にうるさかった。先輩がいますから挨拶から始まって、稽古の最中は正座です。そのせいか私は未だに胡坐(あぐら)がかけない。正座なら何時間でも平気ですが、胡坐は駄目。自動車なんかのリクライニングも駄目。

 それから昭和11年頃まで新内を習いに行ってました。このお師匠さんは、岡本文弥さんという100歳で今でも現役の新内の方の三味線を引いていた人でした。この稽古場は団子坂にありました。

赤いインディアン

 団子坂は馬喰町からは遠くて、通うのが大変なんです。その為だけではないんですが、免許を取りました。当時は黄色と緑の2種類の免許がありましたが、側車(サイドカー)以外は4輪車も含めて黄色でだいたい乗れました。それで黄色の免許を取ってオートバイに乗るようになりました。当時、神田にいた野丁場の方で赤間さんという人が、赤いインディアンというオートバイで現場回りをしていた。これが恰好良かったんです。憧れましたね(笑い)。私が知っているかぎりでは板金屋でオートバイに乗ったのは赤間さんが初めてだと思います。

 当時は国産のオートバイはなくて、そこで外国製のインディアン、ハーレー、トライアンフというオートバイを時間借りして乗っていました。自分でも買いたいんですが、小型のハーレーでも確か四千円くらいしてましたから、なかなか買えない値段でした。赤坂にハーレーの今で言うディーラーがありまして、そこに行っちゃ「ほしいなあ」と思って見てました(笑い)。

 そうこうしているうちに宮田自転車がオートバイを国産で売りに出しました。4気筒のものです。普通のやつが400円。スポーツタイプが420円だったと思います。すぐ買いました(笑い)。スキーの板が6円、手縫いのスキー靴が15円、自転車が6円、リヤカーは結構高くて12円ぐらいしてました。その頃のことです。スキーも昭和6年頃から始めました。越後湯沢に行くんですが、上野を11時過ぎの列車に乗って、湯沢に着くのが朝の4時。旅館は当時「湯沢ホテル」くらいしかありませんでした。他には今でいう民宿と朝日新聞の寮があった程度です。その「湯沢ホテル」は普通のお客が泊まると2円、ところが何故かスキー客は1円50銭。安く泊めていただいたから一生懸命スキーをしたかというと、夜は芸者をよんで宴会、昼間はその芸者に玉付けてスキーを教わっているんだから、ろくなスキーじゃなかったですよ(笑い)。

(つづく)

2012/11/20(火) 00:06:21|屋根|

明治生れの銅かざり職人・鴨下松五郎「板金工事今昔」最終回

板金の技で助けられた

鴨下作品
日本金属屋根協会に飾られている鴨下松五郎さんの作品。まるで折り紙細工のようだと言われた。

今回の連載読み物は、明治生まれの銅板屋根職人・鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の9回目。最終回です。板金の技術で助けられた兵隊時代、捕虜生活…。

社団法人日本金属屋根協会が機関誌「施工と管理」に連載した記事の転載です。日本金属屋根協会は平成7年から4回にわたって、名高い銅錺師(どうかざりし)鴨下松五郎さんのインタビューを機関誌「施工と管理」に掲載しました。

委員長
鴨下さんのインタビューを行った大江源一広報委員長(大江金属工業社長)。

板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ⑨

殴りっぱなしよりいい

 現役で軍隊に入ったときは台湾に送られたんですが、結構板金の技術を生かせる仕事が軍隊の中にもありました。そのためよく中隊長から「演習行かなくてもいいからハンダ付けしていろ」と言われました。こっちも演習よりはハンダ付けのほうが、何といっても楽でしたから、喜んでやってました(笑い)。
 そのあと昭和12年に一回目の招集を受けて中国に行ったんですが、留守宅に現地の市長さんから感謝状とお金(30元)が送られてきた。これは、現地の子供や病人の世話を随分していたんですよ。それに対して「ありがたい」ってことで、留守宅に感謝状が来たらしいんです。ところが、うちの母親は面食らっちゃった。なにしろ戦争している相手の国から感謝状とお金が送られてくるとは「息子は何してんだろ」ってわけ(笑い)。びっくりして町会長さんのところに相談に行ったら「これは息子さんは人の出来ないことをやってるんだ。こういう人が大勢いないといけないんだよ」と言ってくれたらしいんです。それでもうちの母親は納得しないんです。軍国婆さんだったから「こんな敵の金なんかもらえるか」って、陸軍の執兵に寄付しちゃった。
 私のほうも中国人の面倒をみていると「鴨さんは日本の兵隊よりも中国人のほうが大事なんだね」と言われてました。確かに人のこと殴っといて、そんなことやってもしようがないんだけど、殴りっぱなしよりはいいと思ってやってました。それに私は中国人が好きでしたよ。やはり「大人」ですね、彼らは。
 二回目の招集のときは、免許を持っているからと自動車の輜重兵にさせられました。こっちは小隊長でしたが、免許を持ってはいるものの、そんなに車のことは知らない。ところが兵隊のほうは運転手だったりしますからそれこそプロです。それである時、上から日産のトラックの新車を3台くれるという話しがあり、喜んで貰ってきたら「トーシローは困るね」といわれちゃった。何でかというと「日本のトラックは3ケ月も山の中を走ると壊れちゃう。荷車と同じだ」と言うんです。「どうせ貰うなら中古でもフォードがいい」ってわけ。壊れませんからね。それで私、日産の新車を返しに行きました(笑い)。
 ある時爆撃(砲撃?)で部隊のトラック32台全部のラジエターが抜けてしまった。最初は水を注しながら走ったんですが、いくらも走れない。穴をふさがなければ駄目だということになったんですが、肝心の塩酸がない。この時も板金の技術に助けられました。兵隊に松やにを集めさせたんです。それを塩酸の代わりに使ってラジエターを直すことが出来ました。松やにを使うなんて、板金の仕事をしていなかったら思い付きもしなかったでしょうね。

板金屋になってよかった

 戦争に負けた後は捕虜です。食料がなくてみんな栄養失調でしたし、塩が手に入らないのにも困りました。お金があれば街で買えるのですが、そのお金がない。何とかしてお金を手に入れなければ、どうにもならない感じでした。
 そこで、ドラム缶で中華鍋をこさえて街で売ることにしました。現地の中華鍋は当時は鋳物でしたので、落としたりすると割れるんです。当時の中国では金物は鋳物製が多かった。蝶番(ちょうつがい)なんかも鋳物でした。そこに目を付けまして街の市場に行って、鋳物の鍋を割って見せて、今度はドラム缶の鍋を落として見せるわけ(笑い)。割れませんから評判になって売れました。売れたのはいいんですが、今度は鋳物の鍋屋さんが怒った。「戦争に負けたくせになんだ」ってことで、取り囲まれて殴られましたよ(笑い)。

 そのほか、ブリキのマッチ入れや蝶番なんかも作って売りました。それだけではなくパンを焼いて売ったり、農作業の手伝いをしたりと部隊の人間が出来ることはなんでもやりました。こういう中で一番助けられたのは、自分の持っている板金の技術でした。板金屋をやってて本当によかったと思いました。
 そんな捕虜生活もいよいよ終わり、日本に帰れるとなった時に「そういう(板金)技術を教えるために中国に残ってくれないか」と言われました。私の心も相当動いて残ってもいいかなと思い始めたんですが、ある紡績会社の人が……この人は日本の方ですが…「技術を教えるのはいいことかも知れない。けれど(日本人が)いるといないとでは、いないほうがいいですよ」と。なるほどと思いました。残る気持はありませんでした。

2012/11/28(水) 00:44:24|屋根|

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