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燃土燃水献上図を探ねて

燃土燃水献上図を探ねて

小堀鞆音展が終了しました。あっという間の1月半でした

日本の防水の起源に関わる歴史画・日本書紀の一節を画いた「燃土燃水献上図」
我国の歴史画の父・小堀鞆音の珍しい作品が初めて一般公開されました。

小堀鞆音図録

防水業界にかかわりを持ってほぼ35年。たびたび目にしてきた「燃土燃水献上図」の話題や、それを題材にした美術作品。しかし、昨春からルーフネットの本格的な連載を始めて、「実物はいったいどこに…」という思いが募ります。その所在を確かめたく情報を集めてきました。調べれば調べるほど、この絵は魅力的で、かつ防水業界にとってかけがえのない大切な絵であることが分かってきました。

それが、思わぬ人の縁に恵まれ、なんと作者小堀靹音(ともと)の生地である栃木県佐野市にある佐野市立吉澤記念美術館展覧会での展示が実現しました。作品が出展されるに至るまでの、多くの方のご尽力とお気持ち、また、絵を鑑賞された多くの方々から寄せられた多彩な感想を反芻し、重ねがさねの幸運に感謝しています。

展示

歴史画の父、明治・大正を代表する歴史画の大家小堀鞆音は帝室技芸員、今でいえば人間国宝でした。時代の流れで現在の知名度は決して高くはありませんが、この絵が画かれた当時、小堀靹音の人気・画壇での評価はトップレベルでした。今回の展覧会で作家の魅力を堪能し、嫡孫である東大名誉教授小堀桂一郎さんの講演により、作品の意味や、「靹音が画いたのは時代の精神であった」こと学びました。さらに佐野市葛生という町の産業と生活と文化にふれる機会を得、蔵の街としての佇まいに安らぎを覚え、日本離れした石灰鉱山のスケールに驚きました。

小堀靹音(ともと)画伯が、日本石油㈱(当時)の依頼により大正3年に完成させた「燃土燃水献上図」の再発見と展示はルーフネットにとって今年最大のニュースです。これから年末にかけて、その経緯を報告します。 

佐野市立吉澤記念美術館

※ ※ ※

燃土燃水献上図を探ねて その1

ルーフネット 森田 喜晴

小堀鞆音燃土燃水献上図、原画

明治・大正期の日本を代表する歴史画家、小堀鞆音の作品「燃土燃水献上図」はこれまで作品目録や、年表には記録がなかった。もちろん展覧会に出品された形跡も見当たらない。日本石油株式会社(当時)が発注し、製作年は大正3年であることは間違いなさそうだ。日本石油役員室の壁に掛けてあるはず、と何人かの人は言う。近年、原画を見ることはできなかったが、長年、業界の歴史を語る絵として、挿絵や複製等を通して身近にあった。原画はなくても、画柄を模した祭りやオペレッタまであった。「喜歌劇・燃える水」は我国初の我が国初の本格テナー田谷力三19歳のデビュー作でもあった。

「燃土燃水献上図」とは、「越国」(現在の新潟県)で産出したアスファルト(燃える土)と石油(燃える水)を天智天皇に献上したという「日本書紀」の記述を絵画化した作品だ。筆者がこの絵の存在を意識したのは1997年。

近江神宮燃水祭・日本書紀奉唱
近江神宮燃水祭・日本書紀奉唱

新潟県黒川(旧黒川村、現胎内市)では黒川燃水祭が毎年7月に行われている。1,300年前の故事にならい、天智天皇を祀する滋賀県の近江神宮に献上する燃水を採油し、鞆音の絵を参考にした献上行列も再現されている。石油元売り・販売会社は日本書紀の「燃土燃水献上」の記述を自らの業界史の原点として近江神宮の「燃水祭」を大切に守っている。

東京新聞

このようにアスファルト・石油の歴史を語る図像として親しまれた作品の原本がこの春再発見された。そして作者である小堀靹音(ともと)の生地佐野市立吉澤記念美術館が開催した「小堀靹音(ともと)没後80年展」で2011年10月1日より11月13日まで発公開された。初公開のこの作品は毎日・産経・東京新聞などでも取り上げられた。

小堀桂一郎講演

小堀靹音(ともと)の嫡孫で東京大学名誉教授小堀桂一郎氏の記念講演は満席だった。この講演の中で小堀氏は新たに発見された「燃土燃水献上図」の歴史画としての価値を高く評価した。

筆者がこの絵の存在を意識したのは1997年。ようやく「燃土燃水献上図」と巡り合う事が出来た。

つづく

燃土燃水献上図を探ねて その2

「燃土燃水献上図」をたずねて -2-
今回は発見から、本邦初公開までの記録です。

2011年6月(*1)。行方不明だった小堀鞆音(ともと)画・「燃土燃水献上図」が、JX日鉱日石エネルギー㈱戸田保管庫で見つかった。動いたのは総合防水メーカーの老舗・田島ルーフィングである。
6月20日午前10時30分、田島国雄社長、窓口の綿引友彦氏、ルーフネット編集長立ち会いのもと、東京・岩本町の田島ルーフィング東京営業所会議室において佐野市立吉澤記念美術館・末武さとみ学芸員が画を鑑定した。そして「大和絵の系譜を継く歴史画の父・小堀鞆音の優品である」ことを確認。翌日にはこの作品を10月1日から開催される予定であった佐野市立吉澤記念美術館「小堀鞆音没後80年展」へ追加出品すべく、絵の所有者であるJX日鉱日石エネルギー㈱と出展交渉することが決まった。

田島国雄社長、佐野市立吉澤記念美術館
左・田島国雄社長

動いたのは田島ルーフィングだが、同社に画の捜査協力を依頼したのは丸山 功氏(新バ―レックス工営会長) である。その経緯はこうだ。

昨年2010年10月、縦30センチ、横45センチの美しい織物が新バ―レックス工営㈱丸山さんの元に届いた。(*2)日本書記の記載にある「天智天皇に越の国から燃える土(瀝青)と燃水(石油)が献上された」という故事を描いた小堀鞆音画伯の「燃土燃水献上図」を忠実に再現したものである。
これは5年前に死去した、松本工業㈱の佐藤健二社長の妻とよ子さんが、防水業界の歴史に詳しい新バ―レックス工営㈱の丸山 功取締役会長に遺品として額装し贈呈したもの。とよ子さんは「主人の亡父が大切にしていたが、主人は気にも留めずシミだらけにした。主人が亡くなった後、そのことを思い出した。私が持っていても仕方無いので、もらってほしいと思い額装した」そうだ。丸山さんはルーフネットのサイトで小堀画伯の絵を見て、その画と防水業界との深い関わり知っていた。この織物が同じ画柄であることが分かった。そこでとよ子さんに入手経路を尋ねたところ、「義父が日本橋の方の会社からもらったらしい」とのことだった。

その年の年末、新バ―レックスを訪問した田島社長に対して、丸山さんは「日本石油が30周年記念事業の一環として小堀鞆音画伯に日本書紀の天智天皇への瀝青献上の絵を依頼したということであるから、この織物も、日石の関係でつくられ、配られた可能性がある。防水業界にとって貴重なものかも知れない。自分が持っているよりは業界最大手で、アスファルト防水の老舗である田島ルーフィングが持っていた方がよいだろう」とこの織物を寄贈した。 同時に、織物の原図であり、行方不明になっている小堀鞆音画伯による「燃土燃水献上図」の探索を同社社長の田島国雄氏に託した。翌月、田島ルーフィングは取引先の株式会社ジェイエックを通じて、JX日鉱日石エネルギ-株式会社(旧日本石油㈱)広報室に調査を依頼した。ジェイエック(旧中西瀝青)は大正8年創業の、田島ルーフィングともつながりの深い日本石油系のディーラーである。

田島ルーフィングからジェイエックを通じてJX日鉱日石に話が行った時期は絶妙のタイミングであった。というのは、平成22年7月1日に誕生した『JX日鉱日石エネルギ-株式会社』は合併による本社移転に伴いそれぞれの財産目録を作成しており、ほぼ作業を終えた時期だった。もちろん美術品も例外ではない。ジェイエック真瀬部長からの調査依頼を受けてリストを調べたJX日鉱日石エネの広報室は、そこに小堀鞆音の名を見つけ、戸田保管庫でケースに入った「燃土燃水献上図」を確認し、6月はじめジェイエックに連絡、ジェイエック真瀬氏から田島ルーフィングに「発見」の知らせが来た。

実は、筆者は前年(2010年)末、JX日鉱日石エネルギー広報室に、これまでの、新潟県胎内市(旧黒川村)教育委員会や、近江神宮などでの調査結果を報告し、画のありかを問い合わせていた。年が開け明け、今年1月7日広報室K氏から連絡があり、「恥ずかしい話だが、会社合併などの混乱により行方不明である」との正式回答を受けて、ルーフネット上で、貴重な画に対する対応の悪さを毒づいていたのである(*3)。

燃水祭
小堀鞆音・燃土燃水献上図を模して行われている新潟県の燃水祭。

燃土燃水献上図発見」の知らせは筆者にも届いた。そして画は一時的に田島ルーフィングに運ばれた。ルーフネットは2011年4月24日の本格的記事発信以来、この画を防水の起源に関わるものとして、各方面から調査していた。発見の知らせが来た頃、読者から、「佐野市の美術館でこの秋「小堀鞆音没後80年展」がある」、という情報をいただいていた。

佐野は小堀鞆音の生地である。その土地の美術館・佐野市立吉澤記念美術館で本邦初公開の画が展示できないかというアイデアが浮かんだ。これまで日本各地で小堀鞆音の展覧会は行われているが、この画の鑑定を依頼するには鞆音ゆかりの佐野市立吉澤記念美術館が最適だ。田島ルーフィングからの連絡をうけて、すぐに佐野市立吉澤記念美術館とコンタクトした。美術館側は興味を示し、すぐに画と対面する日程が決まった。

約束の6月20日、筆者は佐野市立吉澤記念美術館末武学芸員と秋葉原駅で待ち合わせ、東京の田島ルーフィング東京支店会議室で作品を確認した。そこで「小堀鞆音の美術界では知られていない優品である。多少傷はあるが、展示上問題はない。」という評価を得、さらに画の背景に関してはルーフネットの調査の信憑性も確認され、翌日には「燃土燃水献上図」の追加展示決定の連絡が来た。こうして、防水の起源に関わる歴史画の本邦初の一般公開が実現し、2011.10.1~11.13まで佐野市立吉澤記念美術館「小堀鞆音没後80年展」の目玉として展示された。

小堀鞆音発見
落款で制作年代を絞る。

当初、スケジュールの点でこの画の図録への追加は難しいとされていたが、田島ルーフィング、ジェイエック、JX日鉱日石エネルギーの協力で、無事図録にも収録され、ポスターにも組み込まれた。また図録の参考文献欄には防水専門サイト「ルーフネット」の名前が掲載され、展示協力者の欄には、田島ルーフィング、JX日鉱日石エネルギー、ルーフネット編集長の名も見られる。美術館側が用意した記者会見のための配布資料には今回の展示会が本邦初の一般公開となる、「燃土燃水献上図」が詳細に大きく紹介されている。

展示会は11月13日で開期を終えたが、この画を模して近江神宮で「燃水祭」を行っている燃水祭世話人代表で滋賀県石油組合芝野桂太郎理事長が滋賀県から、天然アスファルトの研究者で「秋田県豊川油田をヨイショする会」佐々木栄一会長らも美術館を訪れた。

滋賀石油 芝野さん
近江神宮燃水祭世話人代表。滋賀県石油組合芝野理事長。

2011/11/23(水) 22:50:44|「日本書紀と瀝青」|

燃土燃水献上図を探ねて その3

燃土燃水献上図はいつ画かれたのか?

吉澤記念美術館

この疑問に対する答は日本石油(現:JX日鉱日石エネルギー)が、これまでに作った30年史、同縮刷版、50年史、70年史、100年史、以上5冊の記念誌の中には見当たらない。
ヒントは2つある。

ヒント1

石油会社ではなく防水工事でアスファルトとかかわる建築業界関係資料の中で、この画の初見は、昭和59年9月1日である。防水メーカー・日新工業が創立40周年記念誌として発行した「アスファルトルーフィングのルーツを探ねて」の扉の白黒写真である。

ルーツを探ねて②

画の解説にはこう書かれている。
日本書紀の天智天皇の部に「越国燃土と燃水とを献る」と記されている。当時すでに新潟地方から朝廷に燃土(土瀝青)や燃水(石油)を献上したことを述べている。この故事にならって、日本石油㈱の30周年記念に制作した画である。燃土と燃水とを大きな箱や瓶に入れて都に運ぶさまを描く小暮鞆音(注:原文通り。小堀鞆音の誤り。)の作。「新潟県三島郡出雲崎町にある、石油記念館の資料から複写」。

可能性1.日本石油創立30周年記念として画かれた。
日石の創立30周年記念式典は大正6年5月5日、両国国技館で、盛大な記念式典。第1次世界大戦特需で、その豪華さにおいて、民間の式典としては未曽有の盛事と称された。ところが、式典の記録に小堀鞆音の記録はない。

ヒント2

もうひとつのヒントは、東京芸術大学が所蔵する下画(「天智帝朝越国燃土燃水/下図 71.2×99.3)の裏面に記された、「大正3年博覧会出品画」の文字である。博覧会としか書かれていないが、これは東京大正博覧会のことであろう。

東京大正博覧会会場(美術館)
東京大正博覧会会場(美術館)

可能性2. 大正東京博覧会出展品のために画かれた。
大正東京博覧会は大正3年3月20日より7月31日まで、上野公園一帯を会場にした大イベントで、日本中が盛り上がった。日石はここでも、他を圧倒する規模の展示を行った。
ところが東京府の公式ガイドブックの博覧会美術館の出品目録には小堀鞆音の名はない。美術館ではなく、日石の展示館内での展示と言う可能性があるが、日石側の博覧会展示物一覧にも小堀鞆音の名はない。

天智帝朝越国燃土燃水 下図
東京芸術大学所蔵。小堀鞆音(こぼりともと1864-1931)「天智帝朝越国燃土燃水/下図」71.2×99.3。裏面に「大正三年博覧会出品画」と記されている。

「東京芸術大学百年史」第2巻の大正3年の章に「東京大正博覧会」に関する以下の記載がある。

東京大正博覧会大正三年三月二十日より同年七月三十一日まで上野公園を中心会場として東京府主催の東京大正博覧会が開催され、本工教官の中にも美術部の審査に加わった人が多かった。
(編集部注:高村光雲教授、黒田清輝教授らと並んで小堀鞆音教授ら17名が審査官を嘱託された)
この博覧会は上野公園と不忍池畔にセセッション式や東洋式の展示館が数多く建てられ、東京府を始め北海道庁、二府四十二県、各省官立諸学校、研究所、試験所、台湾朝鮮両総督府、関東庁、樺太庁、諸外国が出品するという大規模なもので有ったが、美術の部門はあまり振るわず、日本画で平福百穂の「鴨」(六曲半双)が、西洋画で新帰朝者太田喜二郎の「赤い日傘」、彫刻で同じく新帰朝者水谷鉄也の「スペインの踊り子」などが注目されただけであった。本校としては教育学芸館に校名額一、敷地建物平面図一、校舎および各教室写真十一を出陳した。

小堀鞆音が「燃土燃水献上図」の下図を出品するはずはないから、完成した「燃土燃水献上図」を出品したはずだ。すると出品したが賞も受けず、注目もされなかったのだろうか。
小堀は審査員であるから、賞の対象からは除外するので有ろうか? 
それとも出品するつもりで下図までは画いたが、何らかの理由で出品しなかったのか? 
もうひとつ考えられるのは、この博覧会には日本石油が全社を挙げて展示に注力した。「燃土燃水献上図」は日本石油の展示コーナーに出品されたのか?しかし日本石油が創立70周年で作った記念史の「東京大正博覧会出品一覧」の中に、この画の名はまだ見つけられない。

可能性3.「日本石油史」の口絵の原画として画かれた。
「日本石油史」は日本石油が単なる社史ではなく、文字通り「日本の石油史」を書き記すという志のもとに製作したものである。ところがこの本は当初、大正3年3月20日から7月31日の会期間で行われた大正東京博覧会に合わせて発行予定が進んでいたはずであるが、発行できなかった。できなかった理由は同書の前書きに書かれている。
本来大正元年までの分で記念誌は編集を終え、大正3年春に印刷に回ったのだが、業界の様子はその後激変、さらに5月には秋田県においてかつてない大噴油があり、記事を追加せざるを得なくなったからであろう。
編集の進行具合から考えて、画は大正東京博覧会の開期前には完成していたはずだ。したがって博覧会の美術館ないし日本石油のブースに展示することはできたはずである。東京府の公式記録にも、日石の展示記録にも記載がないことから、おそらく展示されなかったと思われる。
結局初めてこの画が現れるのは「日本石油史」の口絵としてである。

「日本石油史」

小堀鞆音「燃土燃水献上図」の初見は、日本石油が大正3年8月25日に発行した「日本石油史」。

木版多色刷り
原画をもとに木版多色刷りしたもの。

この目次後に見開きカラー図版があり、「天智天皇の御宇燃水燃土を越の国より献上の図」。同書凡例の末尾に「本書の装丁は小川千甕氏、燃ゆる水、燃ゆる土献上の図は小堀鞆音氏の筆に成りたるものなり」と記されている。

するとやはり小堀鞆音画伯による「燃土燃水献上図」は大正3年に画かれたが、大正東京博覧会に合わせて発行を計画された「日本石油史」の口絵のために製作された(或いは口絵に用いることも想定して)ものであって、大正東京博覧会での展示を目的としたものではなかった、ということになる。

※ ※ ※

展示①

展示②

展示③

佐野市立吉澤記念美術館では「日本石油史」も合わせて展示された。

2011/12/01(木) 23:59:34|「日本書紀と瀝青」|

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