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防水メーカーが作った美術館。  ~なぜ作ったの?~

防水メーカーが作った美術館。  ~なぜ作ったの?~

アスファルト乳剤が創った美術館

池田夫妻

池田英一が「日本アスファルト物語」を書く気持ちになったのは「妻チヨコの突然の死である」と同書のあとがきで述べている。池田20世紀美術館の入り口には池田夫妻のブロンズ像が並んでいる。

著者は「日本アスファルト物語」の最終章で、美術館開設の経緯を語っている。その中で当時のアスファルト業界の様子を簡潔にまとめているので、その部分を紹介する。

池田二十世紀美術館が伊東市一碧湖畔に開館したのは、昭和五十年五月一日である。
 高松宮様が妃殿下とお揃いでテープカットをして下さることとなり、当日、伊東までお出ましいただいた。いよいよ本館のテープをカットしていただく直前になって、宮様は突然私の家内に鋏を手渡されて、「貴女が陰の最大の功労者なんだから。それに、婦人が二人でテープカットすると、入場者が多いのです。妃殿下とお二人でカットしなさい」と仰有られたので、家内は図らずも妃殿下とご一緒にテープをカットする光栄に浴した。この宮様の暖かいご配慮によるハプニングは、家内にとっても私にとっても、生涯忘れ難い感激と名誉の思い出となった。
 さて、このようなことがあったためか、池田二十世紀美術館はお陰で毎年一万人くらいずつ入場者が増えて、今では日本の美術館でも何番目かにランクされるようになった。
 アスファルト物語のなかに美術館が登場するのはおかしいことであるが、関連があるので記載することとした。
美術館を創立するに当って特記したいことは
 一つは、美術館設立資金の出所である。この美術館建設と美術作品は総て池田個人の金で賄われ、他からの寄進は一切受けなかった。日瀝化学からも受けなかった。
 一つは、金の調達である。日瀝化学の株式上場の際、値付株として百万株を出して七億円を入手した。その後、無償増資割当を数回うけ、これを取引銀行に持株してもらい総額二〇億円になった。これをすべて美術品の購入と美術館の建設に当てた。従って、これは事業利益の金でなく、株式上場と増資株式譲渡による入金であった。
 一つは、美術館の名称である。池田二十世紀美術館と「池田」の名を付けたのは、サンケイ新聞の鹿内社長の勧めにより美術館にだけ池田の名前を残した。
 一つは、家内や子供の諒解をえて美術館を財団法人とし、これに美術品も建物も寄付し、かりに法人解散の時もすべての財産が国に帰属されるよう規定し、家族に後顧の心配をなくしたことである。
 一つは、アスファルト事業に五〇年携り、会社上場で得た社会評価の金で創ることが出来た美術館なので、アスファルトが創った美術館と思っていることである。




 以上は、美術館に関してよく人に質問されるので、はっきりさせるために書いたのである。美術館ができた成行きは次のような経過である。


 池田がアスファルトに関係したのは昭和四年であった。今年で五二年の歳月をアスファルト一途に世話になった。最初の一五年間は、建築関係のアスファルト、製品、防水工事に従事してアスファルトを知ったのである。
 昭和二十一年から現在までは、主として土木、道路に関連したアスファルト、製品、舗装に従事し、製品開発と会社経営に全力をあげ、創った会社は一五社であった。
 アスファルト製品の製造を始めたのは、昭和二十三年当時は道路工事に使われていた製品が粗雑な製品でありすぎたので、これを規格に合った製品にするため工場を造ったのが切っかけであった。
 
 代用アスファルトによる防水と舗装 最初は、秋田県土崎町に建てた代用アスファルトの工場であった。アスファルトが不足していたので、硫酸ピッチを活用して約三千トンの代用アスファルトを造り、防水、道路に使用した。二十五年に石油アスファルトの製造が再開されて出回り始めたので製造を停止した。

 昭和二十三年に浅草田中町の倉庫の敷地の一角でアスファルト乳剤と目地材の製造を始めた。その後、二十五年に東京尾久町にアスファルト製品工場を建設し、アスファルト乳剤の製造を本格的に開始した。この乳剤製造の切っかけは、市内の道路舗装に加熱用の燃料がなかったのでアスファルト乳剤を使用していた。乳剤はアスファルトが不足していたので、五五パーセント分のアスファルトを出して製造してもらっていた。ところが、試験をしてみると、アスファルト分が三八パーセント程度しかないことが度々であった。当時のアスファルト乳剤の規格は四八パーセントであった。アスファルトは結合材として大切な役目をするもので、これが出たら目ではよい道路舗装は出来ない。正確な規格をもった製品を造って使用してもらおうと製造を開始したのである。

 アスファルト目地材の開発 セメントコンクリート目地材の製造を始めたのは二十八年であった。市販されているアスファルト目地材は手流し作業で作られるため、中央部が収縮して二〇パーセントくらい薄くなる。これは高温で造るとき起る現象で、これを改良して日本で初めてのエキスパンタイト製造設備を考案し、低温で機械製造した。
 昭和三十二年、建設省道路関係技術者からコンクリート目地が膨張によってはみ出し、自動車の走行に大きなショックを与えて困るので、何とか改良できないかと相談された。早速研究を始めて多孔質の防腐性繊維板、セロタイトと防水密封剤としてゴム化アスファルト、セロシールを開発した。この製品の値段は在来品の二倍であったが、完全に近いほどに走行ショックをなくして好評を得、従来のアスファルト目地材に取って代った。

 アルミ箔ルーフィングの開発 アルミ箔ルーフィングの開発は、陸屋根のアスファルト防水層が老化現象を起すことが判明したためである。終戦後、焼失を免れた建物の防水修理工事において、防水層の上に厚く塗布したアスファルトに老化による収縮で大きな割目が発生していることが分った。
 これを防止するには、アルミ箔が効果的であることが研究の結果で分った。太陽光線がよく当たる面のアスファルトの老化は進むが、アルミ箔の下層までは老化は進行しないのである。下層用にアルミ箔を基材としたメタロイド、上層用に同じくスーパーアルソイドルーフィングを開発した。

 ドル箱 カチオン系アスファルト乳剤 カチオン系アスファルト乳剤の開発は昭和三十四年のことである。アスファルト乳剤の原料であるアスファルト基原油が輸入されないことになったのである。これは会社にとって大事件であった。乳剤は売上金額の六〇パーセントを占める製品である。中東原油から採ったパラフィン系アスファルトを何とか製品化しないと、会社を閉鎖するか、業務を縮小するしかなかった。幸いに一年余で研究を完成して、日本で初めてのカチオン系アスファルト乳剤を発明開発した。このアスファルト乳剤は売れに売れて、首題の池田二十世紀美術館を創る原動力になったのである。

 日瀝化学工業株式会社は、カチオン系アスファルト乳剤の発明開発と育成で八百万円の資本金が一三億二千万円余になり、工場数三六工場、土地は全国国道すじに一四万五千余坪、自己資金六〇億円余を持つ株式会社に成長し、東京証券取引所に上場する会社になった。
 池田英一個人も貯金通帳すらなかった身から、このカチオン系アスファルト乳剤のお陰で余生をのんびりと送れるようになり、苦労を共にした周囲の人々にも返礼が出来たと喜んでいる。

 以上のように、アスファルトに生き、アスファルトによって社会評価を得たのだから、何か社会にお返し出来る施設を残したいと考え美術館を創ったのである。 従って、私はこの池田二十世紀美術館を「アスファルト乳剤が創った美術館」と思っている。

関連する記事はこちら>> 資料第弐号「日本アスファルト物語」

2010/11/15(月) 09:35:00|ARCHIVES|

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