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防水・石油の創作オペレッタでデビューした田谷力三

防水・石油の創作オペレッタでデビューした田谷力三

日本書紀の「燃土燃水献上」を主題とする喜歌劇「燃える水」

オペレッタ「燃える水」台本
「喜歌劇 「燃える水」台本の表紙

日本石油が本社を東京に移転して3年後の大正6年、は創立30年に当たっていた。その年の決算は創業以来の好決算で、あったこともあり、盛大な記念式典が準備された。日石は100周年記念誌で、その様子を次の様に伝えている。

6年5月5日、両国国技館を借り切って大仕掛けな装飾を施し、午後2時から夜8時半に及ぶ式典が繰り広げられた。翌6日の「万朝報」が「東洋未曽有の大宴会」といい、「東京朝日新聞」に「斯かる多数の来賓を招き正式の宴会を開きたるは民間の催しとしては我国未曽有」と記された。式典の内容と来会者は次のとおり。

日本石油創立30周年記念式典出席者
日本石油創立30周年記念式典参加者(日本石油百年史より)

ここで注目すべきは、来賓の豪華な顔ぶれよりも余興の欄。歌喜劇「燃える水」とある。
やっと、ここでこの画(表紙)の意味が分かった。次に表紙の「作:江見水蔭」の文字を頼りに、はたして江見水蔭(えみ すいいん)の作品に「燃える水」なるオペレッタの台本があるのか、どんな内容だったのか、を調べなければならない。

しかしこの喜歌劇「燃える水」の手掛かりは、国会図書館でも、芸大図書館・上野音楽資料室でもまだつかめない。

田谷力三のデビュー作であることは(菊池清麿氏のブログ「日本オペラ史-浅草オペラ」で見つけることができる。

文献ではオペラの歴史に詳しい音楽評論家、増井敬二氏が、「日本オペラ史~1952」(2003年12月25日 水曜社刊)のP112で、田谷の談話としてこう紹介している。

田谷自身の談話によると、この4月(1917年)にテストを受けて入座したという。彼の声を聞いたローシーが「オー・ブラボー・ニッポン・イチバン・テノール・グッドボーイ」と叫び抱きかかえた話は有名だが、主役テノールの不在に苦しんでいたローシーの嬉しさは想像がつく。田谷の初舞台は、5月5日に国技館で行われた日本石油KK創立30周年式典の余興で、ローシー一座の音楽劇「燃える水」(竹内平吉作曲)だった。


竹内平吉 (たけうち-へいきち )
1887-1972明治-昭和時代の指揮者、作曲家。
明治20年9月6日静岡県生まれ。チェロをウェルクマイスターに、音楽理論をユンケルにまなぶ。東京音楽学校(現東京芸大)卒。明治44年帝劇歌劇部(洋楽部)開設と同時に専任指揮者に。その後、宝塚少女歌劇の指揮、指導にあたり、宝塚歌劇団の理事も務め、上演された歌劇等の作曲を多数担当した。昭和47年4月14日死去。84歳。

ここまで解った情報をまとめるとこうなる。

喜歌劇(オペレッタ)「燃える水」
原作:日本書紀
脚本:江見水蔭
作曲:竹内平吉
演出:G.V.ローシー
演奏:ローシー一座
出演:田谷力三ほか(田谷力三19歳のデビュー作)

田谷力三サイン

このサインは、元鹿島建設技術部長で現岩井建築事務所代表の岩井孝次さんが、鹿島時代に銀座のバンクという店で、田谷力三から手持ちの名刺の裏にしてもらったもの。

岩井さんによると、店は10年以上前に閉店しているが、かつて帝国ホテルに近い場所、高速道路下のコリドー街にあり、「田谷力三」の歌が聴ける日もあった。いわゆる歌声クラブで、ステージに向かって椅子が3~40脚並んでいた。いつも女性歌手が数人歌っていた。一通り歌い終わると客席からのリクエストに応えてくれる。早い時間に店に入ると、女性歌手が指揮者にレッスンされていたような記憶がある…という。
森繁久弥さんも来ていた時期もあり、ここからプロの歌手として巣立った人もいたそうだ。

2011/09/25(日) 08:01:26|「日本書紀と瀝青」|

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