防水用ル-フィングと佐野市立吉澤記念美術館
防水用ル-フィングと佐野市立吉澤記念美術館
防水の起源に関わる画の展示。
10月8日は特別講演 佐野と防水との縁
初めて一般公開される 小堀鞆音「燃土燃水献上図」
初めて一般公開されるこの画をもとに、今でも新潟県黒川村(現在胎内市)や滋賀県近江神宮で、毎年お祭が行われている、ということがマスコミに注目され、記者会見の後、毎日新聞、産経新聞、東京新聞が大きく取り上げました。それを見た、大手の老舗総合防水メーカー日新工業常務の相臺 志浩(そうだいゆきひろ)さんからこんな連絡をいただきました。
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今回防水業界にとって重要な絵画である「燃土燃水献上図(小堀鞆音画)」が初めて展示されるのが、佐野市立吉澤記念美術館と知って驚きました。吉澤記念美術館は、佐野市の企業である吉澤石灰工業の3代吉澤兵左氏が寄付した美術館なのですが、この吉澤石灰工業は、ルーフィングの充填剤の原料メーカーなのです。当社は大変長い間お付き合いをしています。偶然にも郷土博物館ではなく、防水業界に大変ゆかりのある企業が寄付をした吉澤記念美術館で展示されるというのは、何か因縁めいたことを感じました。
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現在の佐野市は、旧佐野市、旧田沼町、旧葛生町の1市2町が、平成17年2月28日の合併によって形成された。
佐野市立吉澤記念美術館のある旧葛生町の歩み (佐野市のHPより)
旧葛生町は東西6.1㎞、南北22.7㎞と南北に長く、91.66平方キロメートルの面積を有しています。当町を含む付近一体は古くから足尾山地と呼ばれ、氷室山(1,154m)に代表される山々から東方向および南方向に次第に低く山稜が連なり、氷室山に端を発する秋山川が町を縦貫しています。
この地域は、もともと純朴な農山村として上流階級の衣類の原料となった良質の麻を栽培する土地であったといわれ、また西方から奥州に通じる街道の日光・宇都宮に至る間道の宿があったともいわれ江戸時代に旅人によりもたらされた石灰焼立の技術習得によって、「鉱都」としての石灰産業の歴史が始まりました。ここで生産された石灰は、のちに御用灰として上納され、また、庶民には土蔵の建造や肥料灰として利用されました。明治維新後、鉱山が民間へ払い下げとなり、大正時代にドロマイトの大鉱床が発見されると近代的機械の導入も促進され、以後セメント・砕石・ドロマイトの生産も進み、「鉱都葛生」としての基礎が固まりました。
豊かな自然に恵まれた、石灰・砕石産業を基幹産業とする旧葛生町の姿は現在でも変わることなく続いていますが、時代の流れとともにまちづくりの視点は「生産」から「生活」へとその重心が変化してきています。そこで、「語り合えるまち、大好きだといえるまちを創造すること」をまちづくりの基本理念として位置付け、新たなまちづくりを展開してきました。
葛生地区発展の基である「石灰岩」などの地層は、古生代ペルム紀(2億数千万年前)の熱帯の海でサンゴなどが、光をいっぱいに浴びミネラル分や炭酸ガスを素に、石灰質の骨格をつくりその遺骸が海底に堆積して石灰岩になりました。年月を経て、その石灰岩が太平洋底の動きによって西に移動し、葛生の山々をつくりあげました。石灰岩は雨水等の浸食を受け、そこに洞窟ができました。
かつて(約50万~5万年前)、その周辺で棲息していた脊椎動物等の骨や角が、洞窟などから化石として発掘され、その地層は「葛生層」と命名され学会でも有名です。そんな古代の様子を想像させる化石が、葛生地区には数多く産出しています。
美術館向かいの葛生化石館葛生層の化石は、ほぼ完全な形で発掘された「ニッポンサイ」の復元骨格や、故鹿間時夫博士の収集した26種類の脊椎動物化石などが、葛生文化センター内の化石館に展示されています。これらの資料は、足尾山地の形成や、新生代第4紀の脊椎動物の発展をたどる上できわめて貴重なものです。
2011/10/07(金) 00:13:37|「日本書紀と瀝青」|