「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

60年前の建築学会会長がこれほど防水を重視していたとは…。

60年前の建築学会会長がこれほど防水を重視していたとは…。

吉田享二の防水談義

画像の説明
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これは1957年昭和32年、奥山化工業の会社案内「奥山式総合防水層の栞」の第7ページ。
このページは情報量が多い。昭和31年奥山菊五郎の黄綬褒章。菊五郎と吉田享二教授、十代田三郎教授の合作によるキャッチフレーズ。十代田教授の防水コラム。そして次のページには、21代日本建築学会会長 吉田享二早稲田大学教授の、防水に対する次のようなメッセージが掲載されている。

吉田享二先生談
防水工事は如何なる建築に於いても最も重要視すべきである。而して材料と構造と相俟って完成し得るものである。自己取扱いの材料が建築の一部となって永く其の目的を達する迄、材料製造者及施工者は責任を持つ覚悟をして貰いたい。其為めには熟練者を採用して自己の監督できる法をとって社会を満足せしめてほしいと思う。材料と施工との分かち得ない責任のあるのは防水工事の如きものである。熟練せる監督と現場従業員の必要は無論として、材料選定に関しては次の如きものは実施に際して先ず注意すべき事であろう。
以下略。

吉田享二氏は明治20年(1887)に兵庫県但馬生まれ。明治45年(1912)東京帝国大学工学部建築学科卒業。同時に早稲田大学建築学科講師。助教授を経て大正5年(1916)教授。専門は「建築材料学」であったが、大正14年(1925)から「都市計画」の講義を担当するようになる。東大や京大などに先駆け、大正11年から早稲田では「都市計画」の講義が開設された。当初、内務省官僚の笠原敏郎が講義を担当していたが、翌年におこった関東大震災の後、笠原は復興局へ異動したため、吉田享二が受け継いだ。

建築家として代表的作品、「日本民藝館本館」(登録文化財/昭和11年[1936])、竣工東京工業試験所(1922)、小野田セメント本社(1917-26)、第一菅原ビル(1934)など。

吉田享二氏に関しては、鳥取環境大学浅川研究室のブログが詳しい。
http://asalab.blog11.fc2.com/blog-entry-962.html

なぜ建築学会会長で建築材料学の大御所が防水工事にここまで肩入れしたか。
「奥山-片山のルーフネット」座談会での古谷氏の発言を見てみよう。

yoshida
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古谷:前に僕の先輩で秋山という取締役がいた。あの方は新制高校と旧制高校の境目だから。今生きていれば82歳くらいかな。昭和25年か26年の卒業ですよ。早稲田の大学院を出ているんですよ。あの当時は珍しいですよ。
片山: その秋山さんは奥山さんにはどういうきっかけで?
古谷: 大学院までいかれたのに。就職がないご時世だった。
片山: 僕もお会いしたことがあるはず。 確か小柄な方で。
古谷: 私が早稲田で、十代田先生から「奥山へ行って来い」と言われたのと同じように、吉田先生から「奥山に行け」って言われたそうですよ。
編集長: 十代田先生の先生が吉田先生。吉田先生と奥山の関係があれば、十代田先生が古谷さんに「奥山へ行け」というのはわかります。でも、その前に吉田先生が秋山さんに「奥山へ行け」というからには、さらに以前から、吉田先生と奥山とは、かなり親密なつながりがあったということですね。
以下略。

2010/07/04(日) 17:30:10|ARCHIVES|

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