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「日本最初のアスファルト舗装の話」

「日本最初のアスファルト舗装の話」

「日本最初のアスファルト舗装の話」①

黒沢利八の土瀝青が米国帰りの由利公正の眼にとまった 

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現在の昌平橋

ルーフネット96号中・5月11日の記事に、日本最初のアスファルト舗装の新聞記事を紹介しました(更新情報 2012/05/09 日本初のアスファルト舗装)。明治11年(1878年)初代東京府知事由利公正によって神田昌平橋のアスファルト舗装工事が行われた、というものです。「実は日本初のアスファルト舗装」のタイトルを巡って長崎グラバー邸にある橋とこの昌平橋とが激しい「日本初」論戦を繰り広げていたのです。紹介した5月9日付け東京新聞の記事にあるように、長崎の橋はアスファルトではなく石炭乾留物質であるタールを利用した物であることがわかり、黒沢利八が施工した昌平橋が「本邦初」のタイトルを勝ち取ったわけです。
黒沢利八がこの舗装で使用したのはもちろん秋田・豊川の土瀝青(天然アスファルト)です。

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現在の経綸の碑と後ろのガス燈。燈柱には明治7年の実物が使用され、燈具は忠実に復元された。

豊川の独特の地質と近代産業遺産としての価値を広く知らしめようとしている佐々木榮一さん(NPO「豊川をヨイショする会」理事長)は、天然ガス協会の機関誌「天然ガス・2011年NO.3に「日本最初のアスファルトと舗装の話」という記事を連載しました。タイトルは舗装ですが、きめ細かい取材を通じて天然アスファルト活用の歴史や防水工事への関わりについても、触れられていて、防水の歴史を知る上で、きわめて貴重な記事や写真が掲載されています。ルーフネット98号より4回にわたって、それを紹介します。

「日本最初のアスファルト舗装の話」

―由利公正による東京・神田『昌平橋』のアスファルト舗装事業―

NPO「豊川をヨイショする会」理事長 佐々木 榮一
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つづく

「日本最初のアスファルト舗装の話」②

火が入って日の目を見なかったアスファルト舗装工事

ウィーン万博メイン会場

ウィーン万国博覧会は、1873年5月1日から10月31日までオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーン中心部にあるリングシュトラーセ内・プラーター公園で開催された。日本からは岩倉使節団も見学した。これを参考に明治10年(1877年)日本で開催されたのが、「内国勧業博覧会」。

日本初のアスファルト舗装が、神田・旧昌平橋であると前回の記事にあったが、実はその前年である明治10年8月、東京上野で開催された日本で初めての「内国勧業博覧会」会場の園芸館の床に施工されたのだ。しかし突貫工事と、不慣れな作業員が土瀝青を加熱中の溶解釜に火をいれ、溶けた土瀝青は燃え上がった。この為、その後道路や床舗装に可燃物を使ってはならん、という指示が出てしまったのである。

そして初期のルーフィングともいえるタールペーパーのお話です。紙にアスファルトでなく、タールをしみこませる。ガスを製造する際発生するタールの処分に困っていたものです。由利公正は「タ-ルペーパー」を防水用途に用いることを思いつきました。
しかしタールではやはり…。

豊川油田で解説する佐々木さん
秋田県二ツ井にて、アスファルトの露出しているところを解説する佐々木さん。

「日本最初のアスファルト舗装の話」②

―由利公正による東京・神田『昌平橋』のアスファルト舗装事業―

NPO「豊川をヨイショする会」理事長 佐々木 榮一
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つづく

「日本最初のアスファルト舗装の話」③

「土瀝青(アスファルト)」事業化の歴史を読む

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土瀝青採掘地の写真(豊川をヨイショする会提供)

佐々木榮一さんの労作を3回にわたって転載させていただいた。タイトルは「日本最初のアスファルト舗装の話」だが、内容は単に舗装の歴史にとどまらない。防水の歴史を知る上で、貴重な知見が散見される。佐々木氏の緻密な文献調査と丁寧な聞き取り調査の結果、近代産業史の中で、天然アスファルト(土瀝青)がビジネスとして展開して行った様子が伺える。

PDFの8頁に佐々木さんが大事にしている写真が掲載れている。この写真をアップすると、人足たちが来ているハッピに「アスハルト穴原商会」の文字が染め抜かれている。

穴原商会で創業者 栄治郎と活躍したのが、我が国防水工事店の草分け、木下金蔵(木下謹三商店創始者)、岡田平蔵(岡田建材創始者)であった。木下金蔵はアスファルトルーフィングの輸入元であった穴原商会大阪支店長としての経験を生かし、大正6年1917年創業。アスファルト防水工事、スレート葺き工事の専門店として業務をスタートした。社長の名前が「金蔵」であっても、工事会社の名前が「金蔵」では、いささかまずい、というので、「謹三」にしたそうだ。

「日本最初のアスファルト舗装の話」③

―由利公正による東京・神田『昌平橋』のアスファルト舗装事業―

NPO「豊川をヨイショする会」理事長 佐々木 榮一
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