「今の防水業界がこれでいいのか」「いい仕事をすること、社会的貢献をすることと、防水工事で利益をあげることは両立すべきだ」と考えるあなたに!

2012年3月15日 号(№88)

2012年3月15日 号(№88) kagenn

2012年 弥生やよい 平成24年、昭和87年、大正101年、明治145年

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日本で得られるこの感動

蛭子さん-2

日本最大のドロマイト鉱山
葛生地区には、古生代ペルム紀に属する良質な石灰石、ドロマイトが半円形状に広く分布している。吉澤石灰エ業株式会社は、鉱区としてその富鉱部の大半を保有し、埋蔵鉱量10数億トン以上を確保している。>>つづきを読む

茅葺き屋根の劣化

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茅葺きの排水システムはもはや機能していない
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ルカ先生に聞いた「聖書とアスファルト」の話

中島路可(るか)先生-2

鳥取大学名誉教授で理学博士。「独創的な視点からの化学教育と振興への貢献」により日本化学会・化学教育賞を受賞している中島路可(るか)先生に聞きました。>>つづきを読む

残しながら、蘇らせながらの街づくり

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3月7日 内幸町プレスセンタービルで開催
第3回日本不動産ジャーナリスト会議賞特別講演会
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絵日記

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近代化産業遺産「豊川油田」 その3

天然アスファルトマニアにして地質の専門家佐々木榮一さんの「天然アスファルト利用の産業史。」今回は3回目です。

天然アスファルトの利用は、日本においても4000年前縄文時代にさかのぼる。しかし
日本において天然アスファルト=土歴青(どれきせい・土油=つちあぶら、と称することもある)がビジネスになったのは1818年(文政元年)。秋田の黒沢利八(1765~1838)は土歴青から油煙墨を作り、生産性向上に務め、1804年には年間3トンの生産量に達した。そして藩に対して、年間十貫文の冥加金と引き替えに事業の独占権を得た。

この生産の様子が放浪画家。蓑虫山人によって画かれている。彼は油煙製造だけでなく、天然アスファルトを防水のため屋根に塗っているところも画いている。

黒川油田(秋田)の現役ポンピングタワー

豊川油田からひと山越えたところに黒川油田(紛らわしいが新潟ではなく秋田の黒川)-があり、ここでは現在でも細々と、昔ながらのポンピングタワーで石油をくみ上げている。

近代化産業遺産「豊川油田」

4.天然アスファルト(土瀝青・どれきせい)採掘と産業の歴史
①油煙(ゆえん)製造の話

天然アスファルト(当時は土油〈つちあぶら〉又は土瀝青〈どれきせい〉と呼ばれた)の産業への利用の歴史は黒澤利八(1765?~1838)の研究から始まった。寛政2年(1790)頃秋田県横手市に住んでいた時に、土油(土瀝青)から灯火用の油を製造し、灯火用に適しない残り物を使って油煙墨を作り、佐竹藩主に献上した。そこで、藩から油煙製法の許可をもらい、秋田市の久保田に移り住んだ。そこでは油煙製法の改良を進めるとともに、秋田領内の土油の湧出地の調査を行っている。1804年頃、槻木村(藩政時代から明治初め頃まで呼称された)の槻木・真形尻の丘陵地(油煙山と呼ばれる)に移り住み、油煙の製造に専念した。油煙墨とは土饅頭状にした土瀝青を小屋の中で火をつけて燻らせて煤(すす)を出させて、その煤を集めてニカワで固めた墨である。油煙すなわち煤は墨以外にも染料や塗料として利用されたといわれる。この頃は1ヵ年で七百貫から八百貫(約3トン)の油煙生産が可能であった。文政元年(1818)になって黒澤利八は年間十貫文の冥加金を藩に収め、独占的に事業を行えるように陳情を行ったところ、藩はそれを認め、同業の不許可を約束し、冥加金の納付を命じている。初代が起こしたこの事業は子の久蔵、更には孫の平八へと引き継がれていく。

図-6
図-6(図をクリックすると拡大します)

図-6は油煙製造の絵図である。黒澤利八の家の周りにある十数件の小屋の屋かで油煙の製造が行われた。この絵図は三代目黒澤利八(平八)によって明治初め頃に描かれたのではないかと推定される。図の左上隅に神社が描かれているが、これは文久三年(1863)黒澤平八が京都神紙白川家の許しを得て伏見稲荷大神を勧請し、正一位油煙山稲荷大明神を称号している神社である。この神社は現在でも真形尻の地に存在し、既に百四十五年の歳月を経ている。

図-7
図-7(図をクリックすると拡大します)

油煙の製造方法について佐々木房生(1975)は「瀝青と舗道」(第五冊:大正11年10月)を引用して「四間四方くらいの小土蔵を築き、高さ十尺とし、その内に油土即ちアスファルト原鉱を饅頭形に盛り、その一方に角形の口を付け、饅頭形の頂部に煙突様のものを突き出して、角形の口より火を点じ、頂部の煙突より盛んに煙を出さしめ、土蔵内部の壁に油煙を付着せしめて、こを採取したりと」と記述し、更に「古老によると、明治中期まで残っていたものには、大きさはおよそ八畳間ぐらい、高さは優に人が立って歩けるのもで、これをムロと呼んでいた。コワリ(手柴)を縄で結って骨組みを作り、これに土壁をつけていく。その厚さは四~五寸(15cm程)もあったろうか。外塗りはていねいに仕上げていたらしい。このムロの中にかわかした焚き株(注:土瀝青)を盛り上げて燃やすわけである。と記述している。図-7は「油煙製造」の想像図である。

図-8
図-8(図をクリックすると拡大します)

更に、油煙の取引の状況について佐々木房生(1975)は「文政八年(1825)中、またまた油煙六貫目入りのもの百個を、大坂廻りで江戸へ出荷した。海上を無事に運んで船が着いたという連絡が来たので、利八とその子久蔵の二人が百日の御暇をもらい、上下とも本馬二疋の御駄賃帳をいただいて出かけた。そしてこの油煙をそれぞれ売りさばき、なお末永く契約したいと思い、江戸の問屋富士田屋藤兵衛と黒屋嘉兵衛の両家に赴き、一ヵ年に二千貫余りの取り決めを行い、両人からそれぞれ約定書を受け取ってきた。」と、また「この油煙の価格であるが、前述の江戸表墨屋と藤田屋両家に納入した分、上中下あわせて六百三十九貫目につき六十四両三分二朱と七匁になっている。単価は十貫目入れ一個について百五匁から八十五匁、そして五十三匁の三段階に分けられていた。取引の範囲は江戸の他、京都や大阪方面、越後、会津、南部、津軽まで広げられていた。」と記述している。

図-9
図-9(図をクリックすると拡大します)

油煙の製造は明治中頃まで続けられた。その様子は一人の画家、蓑虫山人(1836~1900:図-8)によって描かれている。彼は紀行家で放浪画家と言われ、青森そして秋田を旅し、その地域の風俗画を描いている。美術品は考古学に詳しいと言われ、特に明治20年に青森県亀ヶ岡式土偶を「人類学雑誌」に紹介したことは有名である。秋田県には3回(明治11年、20年、及び28年)も訪問し、現在の潟上市昭和大久保にも逗留している。図-9は明治20年頃に描かれた油煙製造の図である。この図は槻木村の隣にある竜毛村での黒澤利八の「土瀝青製造図」と題し、説明には土瀝青を以って油煙を製造する図と書いてある。彼は「土瀝青を塗る図」(後述)も描いている。この図をもとに私の解釈を加えてみたい。労働者が鍬で不純物の混じった土瀝青を周辺の地域から採取して、図の右下にあるような背負子に背負ってこの場所に運んで来た。そこで、火で加熱している釜(おそらく茶色の部屋の内?)に入れて溶かし、雑物を取り除き、溶けたものを図の下に見える箱に入れたと推定される。そして、少し冷まし、乾かした後に土瀝青を饅頭状に盛り上げて、頂部に煙突を付けて油煙を発生させたのではないだろうか。その火元口が反対側にあるのか、それとも図にある1ヶ所だけなのか不明である。なお、油煙が発生しているときは四方に戸を立てて、戸の内側に張り付いた煤を採取したのであろう。労働者が全身真っ黒になり作業をしている姿はその労働の厳しさが伝わってくる。

しかし、この油煙製造は明治末には殆ど行われなかった。

豊川近代化産業遺産
豊川近代化産業遺産

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「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館

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我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて、分かりやすく解説します。

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