2012年10月30日 号(№119)
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2012年 神無月かんなづき 平成24年、昭和87年、大正101年、明治145年
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板金屋根の防水は「地の粉」と「洋チャン」で
「洋チャン」と「飛ばし油」を練って防水するはなし。
深川不動尊の見事な銅板屋根。撮影:佐藤孝一(F Zuiko38㎜/ 1.8 OMD)
(写真は本文と直接関係するものではありません。)
ルーフネット119号の、連載読み物は、明治40年生まれの銅板屋根職人の鴨下松五郎さんへの貴重なインタビュー記録の4回目です。118号では、板金屋根の防水に地の粉(じのこ)とコールタールを混ぜて使う、という話がありました。今回は松屋ヤニに油を混ぜて漏れ止めにします。油は「とばし油」と言っていた今でいう菜種油。松ヤニは日本の物方がいいのだが、採れる量が少ないから輸入ものを使うのだがこれを「洋ちゃん」と呼んでいたそうです。洋物の「チャン」ということでしょうね。「チャン」は「瀝青」を指すのですが、一般的にはタールや、樹脂あったり、ヤニであったり。そんな話は、聖書と防水で何度も出てきました。では「洋ちゃん」の話をお楽しみに。
板金いま、むかし -鴨下松五郎氏に聞く- ④
「洋ちゃん」
漏り止めには、もう一つ松やにを油に混ぜたものを使っていました。油は何でもよかったと思いますが、当時は「とばし油」と言ってたと思いますが、今でいう菜種油を使ってました。松やには日本の物の方が品質がいいんですが、採れる量が少ないので高い。そこで輸入したものを使ってました。「洋ちゃん」と呼んでましたね。西洋ものという意味だったんでしょうね。これもさっきの「地の粉」と同じで練り具合が難しい。
これは看板の足元なんかに使いましたね。足元のところに流し込むんです。そうすると、油が入っていますから芯まで固まらないのです。固まらないから看板が動いても、その動きに追随して水の浸透を防げるという仕組みでした。
銅板の屋根には「地の粉」を使えませんでしたので、これを温めて薄く伸ばしたものを塗っていました。この時は刷毛でなく雑巾を使っていたように思いますね。
銅板に何か塗るといえば、銅板の艶がなくなるとまずいってんで、昔の板金屋の中には、「そんなことやっちゃ駄目だ」って言ったんですが、黒砂糖を薄めて塗った人がいました。そりゃテカテカ光って具合はよかったですよ。しかし、虫がついちゃって……(笑い)。こんな馬鹿な仕事をね、馬鹿と思わずやってたんですよ。ただ、この人は馬鹿でなく研究家なんです。どうしたら銅板がきれいになるかと考えていたんでしょうね。それまでの技術を脱皮しよう、脱皮しようとしていたと思います。今から考えると馬鹿な仕事ですが、こういう人のほうが研究心があったように思えますね。
お話しした「地の粉」も「洋ちゃん」も東京の田端にある「浅井工業薬品」さんにいけば今でも手に入ります。
「ぶったくり」
今では道具というのはどこでも買えますが、私らのじぶんは何と言っても神田の「久光」さんでした。現在の機械屋さんや工具屋さんで「久光」さんの出身というところが結構あります。そこで売っている道具は、切れ味が良くてね。職人が使って使い良いものでした。薄刃でもなんでも非常にいいものを出していました。ただ、注文してから手に入るのに3ヵ月くらいかかりました。「房州」の方で作らせたと聞いてます。値段もほかの店の3倍ぐらいはしてましたが、それだけ価値のあるものでしたね。
寸法とりは「ぶったくり」と言いまして、長いものを持って行って現場で寸法に合わせて切ってくるやり方をしてました。これは絶対に間違いがなかったですね。「ぶったくり」とか「あてさし」と呼んでました。
寸法をとろうとしても正確に計れなかったり、寸法の読み間違えが多かったんでしょうね。そもそも昔は字が読めなかったり、書けない職人さんが多かった。うちの親父の兄弟分に「牧野茂八」という人がおりましたが、この人は名人なんですが字が書けなかった。そこで二つ、三つの寸法は「飲み込む」と言ってました。寸法を自分の眼で見て覚えちゃったと言うんです。それで通称「飲込みの茂八」って言われてました。でもね、三つぐらいまでは何とか覚えられるんですが、四つ、五つになると覚えられなくなっちゃって(笑い)……どうしても間違いが起きる。ですから、それから先は「ぶったくり」専門です。
寸法の関係で言えば展開図。これはうちの親父が若いじぶんに「洋行帰りの山田さん」に教わったと言ってました。その山田某さんは洋行して展開図のやり方を勉強してきたという話でしたが、おそらく洋行なんかしちゃいない(笑い)。洋行はしていないが、そういう知識を持った人がいたことは間違いない。ただ、展開図は好い加減なものを引いたんでは合いっこないし、私らは実際の仕事では展開図はほとんど使いませんでしたね。
マン・チョウ・ミイ
材料の話はこの辺にしておいて、次は仕事の方のお話をしましょうか。昔は板金屋にも符丁(ふちょう)があったんですよ。どういうものかと言いますと……ダイ(1)ジョウ( )マン( )キイ(4)ミイ(5)セイ(6)チョウ(7)キュウ(8)エイ(9)そして10はダイにもどる、といったものです。
親父によると、明治の終わり頃の東京の板金屋の手間が1 日、 7銭5厘だったそうです。これを符丁で言うと「マン・チョウ・ミイ」となるわけです。これが関東大震災(大正1 年)頃になりますと1円から1円50銭ぐらいになってました。屋根の張り手間が請負で1坪当たり40銭から50銭ぐらい。当時は18歳ぐらいでしたが、自分で言うのも何ですが結構いい手間を取ってましたね。
例えば二人で1日に 4坪葺いたことがあります。20歳前ぐらいのころだと思いますが、この時は鰹節で有名な「ニンベン」の営業所の屋根の仕事で、屋根は一文字葺きでした。たしか 9番(0. 5mm)の3×6板の四つ切りだったと思います。ハゼは「切り子」です。普通は0. 7mmをよく使ってましたから、当時としては厚いものを使った仕事でした。これを朝の7時頃から現場に行って材料を切ることから初めて、それを折って、屋根に張っていったわけです。
一緒にやったのは小松川の奴でした。腕自慢の奴でしたので「張りっこしよう」って。屋根を張る競争をするわけですからお互いに相手を「煽ってやろう」というん感じで張っていきました。 9番を2枚いっぺんに折ったり、板を切る時も「はさみ」だって動かさずに、板に「はさみ」をクッと入れてそのまま強引に押していって切っちゃいました。それだけ力もあったんでしょうね。
材木が縮む、銅板が縮む
少し手間の話をしますと、樋の「あんこう」は一個で樋1間分の値段を取ってましたね。それと小田原の「切り鬼」というものがありますが、これを一人で作ると1個、5円ぐらいになりました。手間が1円50銭の頃でしたから結構なお金です。「切り鬼」の作り方は、うちに4~5人小田原から手伝いにきてくれていた人がいまして、その人達に教わりました。
この仕事が関東大震災後東京でもかなり多くなりまして、それで仕事から帰ってきて夜業(よなべ)に1日に1個ぐらいこさえました。若いじぶんでしたから、さんざん仕事をしてきた後の夜業も平気でした。そんなわけで「切り鬼」には随分稼がせて貰いましたし、鬼のデザインを変えたりとか作ることも楽しみでした。
看板とか戸袋の什事もよくやりました。看板は今で言う既成品のような物がありまして、それを売っていました。金物通りの「村山」さんの隣に看板屋さんがありまして、そこから木彫りの看板に銅板を張る仕事をよく頼まれました。昔はこういう看板でいいものがありましたね。子供じぶんからよく見せに連れていかれたのは、本郷3丁目の四つ角にあった下駄屋さんの看板です。この看板には大きな下駄を銅板で張ってありました。下駄の鼻緒はだんだん太くなるでしょ、それを銅板で実に見事に張ってありました。名前は忘れてしまいましたが、当時の名人が張った仕事というので、よく見に行きました。
「ひとみ」や戸袋を銅板で張る仕事がやはり関東大震災後多くなったのですが、「ひとみ」の場合大きいですから銅板一枚の幅では足りない。そこで、裏から幅 0mmでテープを貼るようにハンダ付けていきました。表からは一枚の銅板で仕上げたように見せるわけです。ただ、銅板には伸縮がありますから、あとで切れちゃうことがあります。
昔の人は伸縮なんか全然考えていませんから「板が縮む」と言っていました。材木が縮むことで銅板が切れるという理屈です。うちの親父なんかも大工さんに向かって「古材屋に行って古い板を買ってきて、それでやってくれないと皺が出ちゃう」なんて言ってました。板金屋は木が縮むことは知っていましたが、金気(かなけ)の物が伸び縮みするなんて思ってもいなかったから、銅板が切れたとなると「古い木を使わないからこうなっちゃった」とか言って、大工さんに責任を押しつけて威張ってました。もっとも大工さんも銅板が伸縮することなんか知りませんから「それは申し訳ない」なんて謝ってましたね(笑い)。
(つづく)
2012/10/30(火) 09:49:00|屋根|
「BOUSUIデジタルアーカイブ」防水歴史図書館

我が国の防水の歴史を考察する上でどうしても欠かすことのできない文献が何冊かあります。
防水歴史図書館(BOUSUIデジタルアーカイブ)では、そんな文献を1冊ずつ選び、本が書かれた当時の様子、おもな内容、その本のどこが「すごい」のか、現在生きる人たちにとって、どんな価値があるのか、それぞれの資料を担当するキュレーターが、時には執筆関係者への取材を交えて、分かりやすく解説します。
- 主な収録項目
特集ページ
- 資料第壱号「アスファルト及びその應用」
- 燃土燃水献上図を探ねて
- 「聖書と防水」3部作
- 「日本書紀と瀝青」
- 日本初のRC橋と琵琶湖疏水
- 『選択』に連載中の紺野大介 清華大招聘教授とルーフネット
- 「お初」の上七軒だより
- 日本橋改修工事
- 武生余話
- 今でも「燃える土」は見ることができる
- 「日本最初のアスファルト舗装の話」
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